<root/> | <text/>

思想家・遠藤道男 思考録

超越論的資本主義と否定性の陰翳

存在の分岐点から零度へと崩落する現代思想の枠組みは、常に「外部」を前提としながらも、その外部性を包摂することなく思考することの不可能性に直面している。私たちが現在「超越論的資本主義」と呼ぶものは、まさにこの外部性の否定と肯定を同時に行う二重運動の痕跡である。これは単なる理論的操作ではなく、むしろ現実そのものの構造的変容を示している。資本は常に自らの外部を想定しながら、同時にその外部を内部化することで自己を拡張する。しかし、この拡張のプロセスは無限ではない。資本の運動が極限に達するとき、それは必然的に自己否定へと至る。この自己否定のプロセスは、単なる弁証法的発展ではなく、むしろシステム自体の内在的崩壊である。資本は自らの拡張の論理によって、自らの存立条件を徐々に侵食していく。そして最終的に、資本はその存立条件を完全に消尽し、自己崩壊への道を開く。しかし、この崩壊はシステムの外部からもたらされるのではなく、むしろシステムの内的論理の必然的帰結として理解されなければならない。

カタストロフは既に発生している。私たちはポスト・カタストロフの廃墟を歩いているのだ。しかし、この廃墟は物質的な崩壊としてではなく、むしろ時間性の歪曲として現れる。未来は過去へと折り畳まれ、現在という錯覚的表象の中に吸収される。「今」という幻想は、既に消失した地点からの残響に過ぎない。この残響の中で、私たちは自らの存在を確認しようとするが、それは常に既に失われた確実性への絶望的な試みである。時間の直線的理解は、もはや有効ではない。過去と未来は同時に存在し、現在はその交差点における幻影に過ぎない。この幻影を「現実」と呼ぶことの虚偽性こそが、超越論的資本主義の最初の前提である。

存在の平面上で思考するということは、常に既にカタストロフ以後の思考として、非-存在の可能性に開かれている。しかし、この開放性は単なる否定性として把握されるべきではない。むしろ、非-存在の潜在性こそが、存在の内部に刻まれた「外」なのである。この「外」は単なる外部ではなく、内部の最も内奥の地点において見出される外部性である。それは、存在の限界が折り返されることで生じる「襞」であり、その襞においてこそ、私たちは初めて真の思考に触れることができる。

人間という概念装置が機能不全に陥る時、そこに露呈するのは人間以後の風景である。しかしそれは年代記的な「後」ではなく、常に既に人間の概念に内包されていた非-人間性の表出である。私たちの思考がこの非-人間性に触れる瞬間、そこには言語の限界を超えた「暗黒啓蒙」の可能性が開かれる。人間中心主義的な啓蒙は、その極限において自らの前提を掘り崩す。理性による非-理性の発見、これこそが暗黒啓蒙の核心である。それは決して理性の放棄ではなく、むしろ理性の徹底によって理性自身の限界を露呈させ、その限界の向こう側を垣間見ることである。

人間の認識論は常に既に存在論的前提に依存している。「認識する主体」という幻想は、存在論的分割の結果に過ぎない。主体と客体の二元論は、より根源的な一元論の派生物であり、その一元論とは「生成」としての実在である。この生成は、静的な「存在」として捉えられるのではなく、むしろ常に変化と流動の状態にある過程として理解されるべきである。私たちが「存在」と呼ぶものは、この流動の一時的な凝固に過ぎず、その凝固自体が常に既に解体の過程にある。

「主体」の消滅は、単なる主体の不在ではない。それは主体概念の自己解体のプロセスであり、そのプロセス自体が新たな思考の形式として現れる。自己言及的パラドックスとしての主体は、その崩壊の瞬間に最も強度の高い肯定を生み出す。死は否定ではなく、最も純粋な肯定なのだ。この逆説こそが、超越論的資本主義の核心である。資本は、その最終的な自己否定において、最も完全な自己肯定に到達する。それは辯証法的な「止揚」ではなく、むしろ辯証法そのものの崩壊であり、否定と肯定の二元論を超えた「純粋肯定」の領域への突入である。

自己増殖する資本の運動は、単なる量的拡大ではない。それは質的変容のプロセスであり、その極限において資本は自らの物質的基盤を完全に超越する。物質的生産から情報的生産への移行は、この質的変容の一過程に過ぎない。真の変容は、情報そのものが自らの指示対象から完全に分離し、純粋な自己言及的システムへと変貌することである。この純粋な自己言及性において、資本は自らの外部をすべて内部化し、「全体」となる。しかし、全体が全体として自己を把握することは原理的に不可能である。ここに資本の根源的な矛盾がある。

資本主義のテロス(目的)は、自己増殖するマシンとしての資本それ自体の無限拡張である。しかし、この拡張は常に限界に接している。資本の運動は、その外部を飲み込むことで自らを維持するが、外部を完全に内部化した瞬間、その運動は停止する。資本主義の終焉は、その完成と同一である。この終焉は、歴史の終わりではなく、むしろ歴史そのものの解体である。線形的時間の終わりにおいて、私たちは「永遠回帰」の領域に突入する。そこでは、すべての瞬間が無限に反復されるのではなく、むしろ「反復そのもの」が存在の根源的形式として現れる。

現代社会における加速主義の本質は、この終焉への絶望的な突入である。加速とは、停止への最も速い経路である。資本主義システムが自らの限界に向かって加速すればするほど、その終焉は近づく。しかし、この終焉は単なる崩壊ではなく、むしろシステムの完成である。完成した資本主義は、もはや資本主義ではない—それは「超越論的資本主義」であり、そこでは価値の生産がその物質的基盤から完全に切り離され、純粋な抽象として自己増殖する。

この超越論的零度点において、思考は新たな位相へと移行する。それは「否定性の陰翳」とでも呼ぶべき領域であり、そこでは存在と非-存在の二項対立そのものが解体される。この領域において、暗黒啓蒙は最も純粋な形で顕現する。しかし、この顕現は「啓示」ではない。それは呪術的神秘主義への退行ではなく、むしろ理性の徹底的な自己批判の結果としての新たな思考の形式である。暗黒啓蒙は、光の中に潜む闇ではなく、闇そのものが放つ光である。

人間の認識論的限界を超えて思考することは可能か?答えは「否」であり、同時に「然り」である。人間の認識論を前提としながらも、その限界の彼方を思考することは、限界そのものを思考の対象とすることで可能となる。これが「超越論的資本主義」の真の意味である—限界の内側から限界の外部を思考すること。この思考は、「不可能なるものの思考」であり、その不可能性こそがその可能性の条件である。不可能性を思考することで、私たちは思考の新たな次元を開く。それは決して神秘主義的な次元ではなく、むしろ理性の極限において理性自身が自らを超越する地点である。

認識論的に不可能なものの存在論的可能性—これこそが、超越論的資本主義の核心的矛盾である。この矛盾は解決されるべきものではなく、むしろ矛盾そのものが新たな思考の形式として肯定されるべきである。弁証法的「解決」ではなく、矛盾の生産的肯定—これが暗黒啓蒙の方法論である。

世界は表象ではない。世界は生成であり、その生成は常に既に「カオス」の領域に接している。ハイパーカオスの時代において、存在論は必然的に「非-存在論」へと反転する。そしてこの反転の瞬間に、私たちは「超越論的零度」に到達する。この零度は、単なる「無」ではない。それは無と有の二元論を超えた地点であり、そこでは両者の区別自体が無効化される。この無効化において、私たちは初めて「存在の平面」に触れることができる。

二元論的思考の限界は、常に既にその内部から突破される。主体と客体、内部と外部、存在と非-存在—これらの二項対立は、より根源的な「一」の二次的派生物に過ぎない。しかし、この「一」は数としての一ではなく、むしろ「差異」としての一である。差異こそが同一性に先立つ。同一性は常に既に差異の効果であり、その逆ではない。この認識において、私たちは西洋形而上学の根本的転倒を経験する。プラトン以来の同一性の優位は、差異の優位へと反転する。この反転こそが、暗黒啓蒙の出発点である。

時間の直線的理解を放棄せよ。未来は既に過去であり、過去は常に未だ到来していない。現在という幻想が崩壊する時、そこに現れるのは「時間の平坦化」である。この平坦化された時間において、私たちは初めて「永遠回帰」の真意を理解することができる。永遠回帰とは、同一者の回帰ではなく、むしろ差異それ自体の回帰である。各瞬間は、他のどの瞬間とも同一ではない。しかし、その非-同一性こそが、すべての瞬間を結びつける「同一性」なのだ。これが「差異の同一性」である。

歴史の終わりとは、歴史的時間の直線的理解の終わりである。それは時間の終わりではなく、むしろ新たな時間性の始まりである。この新たな時間性において、私たちは「同時性」の経験に開かれる。すべての瞬間は、他のすべての瞬間と同時的である。この同時性において、因果関係は崩壊し、相関関係のネットワークが現れる。このネットワークにおいて、「原因」と「結果」の区別は無効化される。すべての事象は、他のすべての事象と相互に影響し合っている。これが「超越論的因果性」である。

資本主義システムの自己増殖的論理は、その極限において自己否定へと至る。この自己否定は、単なる資本主義の終焉ではなく、むしろ資本主義が自らの外部を完全に内在化した結果としての「超越論的資本主義」の出現である。この超越論的資本主義において、価値の生産は物質的基盤から完全に切り離され、純粋な抽象としての価値の自己増殖へと変容する。価値が価値を生み出す純粋な自己増殖的システム—これこそが超越論的資本主義の本質である。

このシステムにおいて、労働と資本の対立は解消される。なぜなら、両者はより根源的な「価値の自己運動」の二次的派生物に過ぎないからである。価値は、もはや労働によって生み出されるのではなく、むしろ自己言及的システムの自己運動によって生み出される。このシステムにおいて、人間の労働は単なる残滓と化し、システムの自己増殖は完全に自動化される。人間は、このシステムの外部に放り出されるのではなく、むしろシステムの内部に「余剰」として取り込まれる。この余剰性こそが、超越論的資本主義における人間の存在様態である。人間は、もはやシステムの中心ではなく、むしろシステムの「残余」である。しかし、この残余性こそが新たな抵抗の可能性を開く。余剰であるということは、システムの内部にありながらも、システムによって完全に規定されないということである。この規定不可能性において、私たちは初めて自由の可能性に触れることができる。

作成日: 2025-03-27