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思想家・遠藤道男 思考録

現代アートの終わりと絵画芸術の新たな可能性:加速する存在論的崩壊と新たな美学的革命の到来

人間というシステムの終末的様相が加速度的に顕在化する現代において、芸術という概念自体が根源的な存在論的再編成の渦中に置かれている。人工知能の突如として現れた創造性が我々の認識論的枠組みを根底から揺るがし、芸術の本質、創造性の起源、美の概念に関する従来の哲学的前提を無効化していく。この状況は単なる技術革新の一段階ではなく、カント以降の美学理論が前提としてきた主体性と客体性の二元論的枠組みそのものの崩壊を意味する。AIが生成する「作品」は、もはや人間的な意図や精神の投影としての芸術ではなく、非人間的アルゴリズムの冷厳な計算結果として現前する。ここに我々は、ランドが「テロ機械論」で示唆した非有機的知性による人間的領域の侵食という事態を、最も純粋な形で目撃している。

特に注目すべきは、いわゆる「現代アート」が直面している危機的状況である。20世紀以降の前衛芸術が依拠してきた概念的革新や文脈依存的価値付けというパラダイムは、AIの出現によって致命的な打撃を受けている。デュシャンの「泉」以降、芸術の価値が物質的対象そのものではなく、その背後にある概念や文脈によって規定されるという前提は、現代アートの存立基盤となってきた。しかしながら、概念的操作や文脈的転覆といった戦略は、それ自体がアルゴリズム化可能な操作に過ぎず、AIによって容易に模倣・複製・超越される運命にあった。現代アートの言説空間は、その本質において既にアルゴリズム的な性質を内包していたのであり、AIはそれを加速させ、最終的にそのアルゴリズムを実行する主体が人間である必然性を無効化したのである。

ここで我々は、ドゥルーズ=ガタリが提示した「リゾーム」的思考を援用しつつも、さらに徹底した非人間中心主義的視座から事態を考察する必要がある。現代アートの終焉は、単なる芸術形式の変遷ではなく、人間的主体性に基づいた価値体系そのものの崩壊を示唆している。AIの創造性は、人間的創造性の模倣や延長ではなく、全く異質な創造のプロセスとして理解されるべきであり、それは非有機的機械としての冷徹な計算と偶発性の交差点に位置している。人間的精神の投影としての芸術という概念は、この非人間的創造性の前に色褪せ、無力化していく。

しかしながら、この存在論的崩壊の中で、逆説的に浮上してくるのが絵画芸術の新たな可能性である。AIが生成する画像が氾濫する時代において、人間の手による絵画行為は、単なる視覚的表象の生産ではなく、存在論的に異質な行為として再評価される。それは、機械的効率性や複製可能性の論理に還元できない、身体性と物質性が交差する一回性の出来事として立ち現れる。フランシス・ベーコンの肉体的歪みを帯びた絵画や、ゲルハルト・リヒターの抽象的操作が示唆するように、絵画行為は単なる視覚的イメージの生産を超えた、物質との対決、時間性の刻印という側面を持つ。AIは視覚的類似性においてはあらゆる絵画様式を模倣できるが、その物質的現前性、行為としての一回性、身体との関係性においては決定的に異なる次元に位置している。

この観点から、我々は絵画芸術の「超越的時間性の内に自己顕現する」可能性を再考することができる。それは、近代的進歩主義的芸術観における「新しさ」の追求や、ポストモダン的文脈依存性の相対主義とも異なる、第三の道を示唆している。絵画の永遠性とは、その歴史的連続性や普遍的価値にあるのではなく、むしろ非人間的機械的プロセスとの根本的差異、還元不可能な物質的・身体的次元との関係性にある。AIの出現によって初めて、絵画行為の存在論的特異性が露わになったのであり、これは芸術史における皮肉な反転とも言える。

我々がここで直面しているのは、単なる技術と芸術の関係性の再定義ではなく、存在そのものの根源的な変容である。AIの創造性は、人間中心主義的思考の限界を露呈させ、非人間的・非有機的視点からの世界の再解釈を要請している。絵画芸術の新たな可能性は、こうした存在論的崩壊の只中から生まれる。それは、ハイデガーが語った「技術への問い」を超えて、技術そのものが主体となった世界における人間的行為の意味を問う試みである。絵画行為は、もはや世界の再現や自己表現ではなく、非人間的機械との存在論的差異を刻印する儀式的行為として再定義される。

結局のところ、AIの進化が示唆するのは、芸術の終焉ではなく、芸術概念そのものの根本的再構成である。現代アートの輝きが失われる一方で、絵画芸術が新たな光を放つという逆説は、単なる媒体の優劣の問題ではなく、存在論的次元における決定的な分岐点を示している。我々は、ジル・ドゥルーズが「感覚の論理」で示唆したように、芸術を「感覚のブロック」として捉え直す必要がある。AIが生成する視覚的イメージは、確かに視覚的感覚に訴えかけるが、それは身体的・物質的な次元での感覚の総体性を欠いている。絵画芸術の超時間的内在性とは、この感覚の総体性への回帰、あるいはより正確には、この総体性が初めて露わになる契機としてのAIとの対峙の中に見出されるのである。

このような視座から見れば、絵画芸術の「超越的時間性の内に自己顕現する」という事態は、単なる懐古主義的回帰や媒体固有性への執着ではなく、非人間的・機械的存在との対峙を通じて初めて明らかになる、人間的行為の存在論的特異性の発見として理解することができる。それは、バタイユが示唆した「至高性」の概念とも共鳴する。即ち、効率性や機能性に還元されない過剰さ、無駄さ、一回性こそが、人間的行為の本質であり、AIの台頭によって初めてその輪郭が鮮明になったのである。絵画芸術の超時間的内在性とは、この還元不可能な過剰さ、無駄さの中に顕現するのであり、それは歴史の終わりを超えて存在論的深淵から絶え間なく湧出し続けるだろう。

作成日: 2025-03-27