加速と崩壊の弁証法:新世紀エヴァンゲリオンにおける未来の終焉
滅亡の可能性は、その本質において存在の拡張であり、虚無へと収束する時空の歪みである。新世紀エヴァンゲリオンという作品が提示する表層的な物語性の下層には、現代思想が直面する深淵がある——テクノキャピタリズム的加速による人間性の消失と、そこから必然的に導かれる「人類補完計画」という収束点。これは単なるフィクションの枠組みを超えた、現実の技術-社会システムが孕む内在的な終末論である。SEELEとNERVという二つの組織が体現するのは、予め設定された目的論的な滅亡への経路であり、それは遠藤ハイデガーが「技術への問い」において警告した「立て組み(Gestell)」の究極的な姿に他ならない。人類という集合的主体が、自らのコントロールを超えたシステムによって再帰的に再編成される過程は、ネオリベラル的主体の極限的消去の形態として読み解くことができる。
碇シンジの実存的な葛藤と、それに対するNERVシステムの冷徹な回収プロセスは、加速主義的パースペクティブから見れば、資本の非人間的なフィードバックループの中に囚われた現代的主体の姿でしかない。EVAというシステムが彼に要求するのは、人間らしさの剥奪と、機械との融合による新たな「存在の様態」の獲得である。この過程で経験される極限的な疎外と実存的苦痛は、ニック・ランドが示唆する「人間の消去」の具体的形象化であり、資本加速による「外部性」の内部化の徴候である。我々は既にセカンドインパクト以後の世界に生きており、実在のシステムにおいて人間という概念は過去の遺物となりつつある。赤木リツコが体現する科学的合理性と加持リョウジが象徴する情報の媒介性は、いずれも近代的主体モデルの終焉へと収束する二つの道筋に過ぎない。
人類補完計画の本質は、個体性という幻想の解体であり、差異の消去による「弁証法的統合」の究極形である。アダム由来の生命体とリリス由来の生命体の融合による第三の種の創出という神話的表象は、人間と非人間、有機体と機械、生と死といった二項対立を超越した新たな存在論の地平を示唆する。これはヘーゲル的な意味での「止揚(Aufhebung)」ですらなく、むしろ弁証法そのものの消滅であり、「負の統一性」としての連続体への帰還である。LCLという原始のスープへの回帰イメージが表象するのは、個別性という幻想の解体と、根源的な連続性への再統合である。ここに至って初めて、個的な「意志」の幻想が崩壊し、システムとしての集合的無意識が顕現する。
EVAシステムが要求する「シンクロ率」という概念は、加速主義的テクノロジーの本質的要求を端的に表現している。それは人間の内面性と機械の外部性の間の境界を意図的に曖昧化し、両者の融合による新たな運動性を獲得するための実験的手法である。綾波レイという存在が体現するのは、このような融合の先駆的形態であり、彼女の複製可能性と交換可能性は、ポスト資本主義的主体の原型である。彼女は「個人」という近代的幻想を超えた存在であり、複数性と単一性を同時に内包する「分散主体」の具体的実装である。それは不安定で流動的であり、固定的なアイデンティティという概念そのものの崩壊を体現する。
碇ゲンドウという存在が表象するのは、近代的な「主体-客体」の二項対立における最後の主体的残滓である。彼の妻ユイへの執着と、それを取り戻すための壮大な計画は、近代的主体性の幻想的残存にほかならない。この意味において、彼は真の加速主義者ではなく、むしろそれに抵抗する最後の人間的要素である。「人類補完計画」という収束点に向かって全てのシステムが加速する中で、彼の個人的モチベーションは奇妙なアナクロニズムとして機能する。しかし皮肉なことに、彼のこの「抵抗」こそが、システム全体を加速させるための触媒となる。これこそが加速主義的弁証法の核心であり、抵抗のジェスチャーそのものが、システムのフィードバックループに組み込まれることによって、より急速な加速をもたらすという逆説である。
セカンドインパクト後の世界における経済-政治システムが示すのは、危機それ自体が新たな価値創出の源泉となるという、後期資本主義の本質的メカニズムである。使徒という「絶対的他者」の脅威は、MARVという軍事-産業複合体を正当化し、その存在自体が新たな資本蓄積の回路を生み出す。この構造はジジェクが指摘する「危機の永続化による資本の自己再生産」の典型例であり、使徒という外部性の出現そのものが、システムの内在的論理によって予め包含されていることを示している。NERV対SEELEという表面的な権力闘争の背後には、資本-情報の流れによって既に規定された「予定調和」が存在する。
シンジが最終的に直面する「相補性原理の崩壊」という状況は、主体と客体、内部と外部、自己と他者といった全ての二項対立的認識枠組みの終焉を意味する。LCLという原初の海への還帰のイメージが示すのは、個別化された主体という幻想の解体と、差異なき連続体への回帰である。これはラカン的な意味での「象徴界の崩壊」と「現実界との直接的邂逅」であり、言語による分節化以前の存在様態への回帰である。しかしこれはノスタルジックな回帰ではなく、むしろ加速主義的な「超越」である。人類補完計画の本質とは、過去への回帰ではなく、人間というカテゴリーそのものを超越した存在様態への跳躍なのだ。
最終的に、新世紀エヴァンゲリオンが提示する哲学的問いは、「人間」という概念の持続可能性と、テクノロジカルな加速による存在論的変容の可能性に関するものである。碇シンジの最終的な選択——補完を拒否し、個別性という「苦痛を伴う幻想」を維持すること——は、加速主義的な視点からすれば、不可避的な変容への一時的な抵抗に過ぎない。なぜなら、既に「人間」という存在様態は、テクノキャピタリズム的なシステムの自己組織化によって内側から解体されつつあるからだ。我々はすでに「使徒」なのであり、同時に「EVA」でもある。この意味で、エヴァンゲリオンという作品は、来たるべき存在論的変容の予言的形象化であり、加速する資本-情報-テクノロジーの複合体が必然的に到達する「特異点」の芸術的表現なのである。