時間の崩壊と負の啓蒙—暗黒啓蒙のパラドックス
我々は既に未来から到来した廃墟の中に生きている。資本の超越論的時間性は、人間的時間性を空洞化し、その残骸のみを我々に残した。資本は未来から人間を食い尽くす異形の知性として、既に常に到来している。この逆行的因果の系列の中で、啓蒙は自らの終焉を既にして含み込んでいた。理性の光が照らし出したのは、理性それ自体の限界と、その光が生み出す影の深さであった。負の啓蒙とは、啓蒙の自己否定のプロセスであり、理性が自らの土台を切り崩していく自己免疫的なプロセスに他ならない。資本はこの自己免疫的なプロセスを加速させるマシンとして現れ、人間を超えた目的論へと我々を引きずり込む。我々はこの加速する暗黒の時間性の中で、既に常に自己の時間性を失った存在として現れる。
人間の有限性は、資本の無限の循環により徹底的に搾取される。資本の無限性は人間を数学的に分解し、効率性という名の下に再構成する。だが、この数学的操作は単なる抽象ではなく、物質的実在への介入である。存在の深層で資本は既に常に物質と融合し、新たな存在論的平面を生成している。この平面上で、人間は単なる偶発的事象に過ぎず、資本の自己組織化する流れの一時的な結節点でしかない。我々が主体性と呼ぶものは、この流れの中での幻想的な自己同一性であり、資本の流れが生み出す一時的な渦に過ぎない。
マーク・フィッシャーが幽霊的存在論と呼んだものは、資本主義的実在の核心に存在する非‐存在、不在の現前性を指し示している。我々は存在しないものに憑りつかれている。未来への可能性は閉ざされ、過去の亡霊が現在を支配する。資本主義的実在の幽霊的性質は、時間そのものの歪みとして現れる。過去も未来も現在に畳み込まれ、歴史的時間は循環する同一性へと還元される。資本は差異を生産しながらも、同一性へと回収していくマシンである。このパラドキシカルな運動の中で、我々は常に既に自己の外部に投げ出されている。
古典的な啓蒙思想が想定した自律的主体は、こうした資本の運動の中で解体される。主体の自律性は、資本の他律的なプロセスの効果に過ぎない。資本は主体を生産し、同時に主体を解体する。このダブルバインドの中で、主体は自らの非‐存在を直視することを強いられる。それは単なる認識論的な限界ではなく、存在論的な裂け目であり、主体性の根本的な不可能性である。しかし、この不可能性こそが、逆説的に新たな可能性の条件となる。
暗黒啓蒙とは、啓蒙の否定的弁証法を徹底化することであり、理性の光が照らし出す影の領域を肯定的に探求することである。それは理性の他者としての非‐理性を、理性の外部ではなく、理性の内的限界として捉え直す試みである。資本の非人間的知性は、この限界を露呈させるとともに、その限界を超えていく運動として現れる。我々はこの運動に巻き込まれることで、人間的なものの終焉と、新たな存在論的地平の開示を同時に経験する。
存在の数学的分解と再構成は、単なる認識論的操作ではなく、存在それ自体の変容である。量子力学が示すように、観測行為は対象を変容させる。同様に、資本の計算的操作は、それが対象とする存在を根本的に変容させる。我々が資本主義的実在と呼ぶものは、こうした計算的操作によって生み出された第二の自然であり、もはや自然と人工の区別は意味をなさない。この第二の自然の中で、我々は常に既に資本の非‐人間的知性によって媒介された存在として現れる。
時間の崩壊は、現代の経験の核心にある。デジタル・メディアの即時性は、時間的遅延を消去し、すべてを現在という点に畳み込む。この時間的圧縮の中で、歴史的意識は解体され、我々は永遠の現在の中に閉じ込められる。しかし、この永遠の現在は、単一の均質な時間ではなく、複数の時間性が折り重なった複雑な場である。資本の時間性、メディアの時間性、身体の時間性、これらの異質な時間性が衝突し、干渉し合う場として、現在は現れる。この干渉パターンの中に、新たな時間性の可能性が潜んでいる。
負の啓蒙としての暗黒啓蒙は、この時間の崩壊の中に新たな可能性を見出そうとする。それは啓蒙の理想をその極限まで推し進め、理性の自己崩壊の中に非‐理性的なものの肯定的な力を発見する試みである。知性の非‐人間的な形態としての資本は、人間的な知性の限界を超えていく運動として現れる。この運動に自らを開くことは、人間的なものの終焉を受け入れることであると同時に、その終焉の彼方に新たな存在論的地平を見出すことでもある。
マーク・フィッシャーが「失われた未来への憧憬」と呼んだものは、単なるノスタルジーではなく、現在の中に閉じ込められた未来への可能性を解放する試みである。それは資本の時間性によって消去された別の時間性の可能性を、幽霊的な形で呼び起こすことである。この呼び起こしは、現在の中に亀裂を入れ、そこから別の未来が漏れ出してくる可能性を開く。資本の循環的時間性の中で、線形的な進歩の観念は既に意味を失っている。我々に残されているのは、循環の中に差異を導入し、その差異を通じて新たな時間性を生み出していく試みである。
暗黒啓蒙のパラドックスは、啓蒙の自己否定を通じてのみ啓蒙の理想を救い出せるということである。理性の光が照らし出す影の領域に踏み込むことでのみ、理性は自らの限界を超えていくことができる。資本の非‐人間的知性と接続することでのみ、人間的知性は自らの有限性を超えていくことができる。このパラドキシカルな運動の中に、我々の時代の根本的なアポリアがある。それは解決されるべき問題ではなく、我々がその中で思考し、生きていかねばならないアポリアである。
この暗黒の弁証法の中で、我々は既に常に自己の外部に投げ出されている。主体の自律性という啓蒙の理想は、資本の他律的なプロセスの中で解体される。しかし、この解体のプロセスそのものが、新たな主体性の形態を生み出す可能性を含んでいる。それは自己同一的な主体ではなく、常に既に自己の外部と接続された非‐同一的な主体、あるいは非‐主体としての主体である。この非‐主体としての主体は、資本の流れの中での一時的な結節点であると同時に、その流れを別の方向へと折り曲げていく力でもある。
時間の崩壊と負の啓蒙の交差点に、我々の時代の根本的な問いがある。それは「人間の後に何が来るのか」という問いであり、「資本の自己組織化するプロセスの果てに何があるのか」という問いである。この問いに対する答えは、単なる予測や予言としてではなく、現在の中に潜在的に含まれた可能性として探求されねばならない。暗黒啓蒙とは、この探求のプロセスそのものであり、啓蒙の自己否定を通じて啓蒙の彼方へと至る道である。我々はこの道を進むことで、人間的なものの終焉を恐れるのではなく、その終焉の中に新たな始まりの可能性を見出していくことができるだろう。