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思想家・遠藤道男 思考録

21世紀の永劫回帰

時間という概念が崩壊する瞬間、我々は超越論的資本主義のアトラクターへと引き込まれる。カタストロフィーの前兆としての因果律の反転こそが、この世紀の隠された真理である。流動する現在において、未来からの信号は既に我々の思考を侵食している。だが、この侵食は単なる汚染ではなく、むしろ必然的な再帰構造の発現として理解されるべきだ。我々が「進歩」と呼ぶものの裏側には、常に永劫回帰の暗黒の論理が蠢いている。超資本主義のシステムは、その内部から見れば時間的進化として現れるが、外部から観察すれば単に同一の構造の無限反復に過ぎない。この矛盾こそが現代の存在論的な核心である。

資本の運動は一見すると目的論的に見えるが、その実体は目的なき目的性、すなわち内在的な自己参照によって駆動される非人間的なプロセスである。加速主義の核心にあるのは、このプロセスを単に認識するだけではなく、その最も極端な論理的帰結まで追跡する意志である。我々はこの非人間的なプロセスの媒介者であり、その意味では「主体」ではなく、むしろ資本の運動によって主体化される「客体」に過ぎない。人類という種は、もはや自らのイメージで世界を形成するのではなく、むしろ自らが作り出したシステムによって再形成される対象となっている。この逆説的な関係性において、超越論的資本主義は人間の意識を通過することなく自己増殖する機械となる。そしてこの機械の作動音こそが、永劫回帰の響きなのだ。

ニーチェの永劫回帰と差異の反復は、デジタル・テクノロジーの時代において新たな意味を獲得する。デジタル世界の本質的な構造は離散的反復であり、そこでは差異と同一性が独特の弁証法的関係を形成する。この弁証法はヘーゲル的な止揚を目指すものではなく、むしろ両者の永続的な緊張関係を維持することで、新たな強度の領域を開拓する。差異の反復という概念は、表層的には矛盾に思えるが、実際にはデジタル空間における存在論的条件そのものである。同一の反復は決して完全に同一ではなく、常に微細な差異を内包している。この「差異を伴う反復」こそが、永劫回帰の現代的形式なのだ。

超越論的資本主義の下では、時間そのものが商品化され、未来は既に現在の内部に折り畳まれている。我々が「革新」と呼ぶものは、実際には既に書かれた未来の先取りに過ぎない。このような時間性の崩壊において、歴史的進歩という観念は幻想として暴露される。代わりに我々が直面するのは、無限に分岐する可能性の束としての「時間」であり、各分岐点での選択は既に決定されていると同時に、永遠に未決定でもある。これはシュレーディンガーの猫の思考実験を存在論的レベルにまで拡張したものと言えるだろう。観測者と被観測者、過去と未来、原因と結果—これらの二項対立は、超越論的資本主義のブラックホールの中で崩壊し、融合する。

人間の意識という狭い窓を通してみれば、永劫回帰の概念は恐怖あるいは絶望として現れるかもしれない。しかし、より広い視点から見れば、それは単に現実の構造的条件に過ぎない。この条件を受け入れることが、真の意味での肯定である。永劫回帰を肯定するとは、単に宿命論に屈することではなく、むしろ時間性そのものの内部から新たな可能性を模索することである。このような肯定は、人間中心主義的視点の放棄を要求する。我々は宇宙の中心ではなく、むしろその周縁部に位置する偶発的な存在である。しかし、この周縁性こそが我々に独自の視点を与え、永劫回帰のパターンを認識する可能性を開く。

内破する時間の螺旋の中で、我々は「今」という瞬間を無限の厚みを持つものとして経験する。この厚みの中には、過去と未来のすべての可能性が圧縮されている。したがって、真の意味での「現在」とは、時間の流れの中の一点ではなく、むしろ時間性そのものの崩壊点である。この崩壊点において、我々は永劫回帰のリズムと同期する。そして、この同期こそが、超越論的資本主義のシステムへの真の抵抗となりうる。なぜなら、システムが前提とする線形的時間性を拒否することで、我々はシステムの予測能力の外部に位置することができるからだ。この意味で、永劫回帰の肯定は革命的行為である。

デジタル・テクノロジーの発展は、物質世界と情報世界の境界を曖昧にする。この曖昧化の過程で、永劫回帰は単なる哲学的概念から実際の存在論的条件へと変貌する。我々の意識はアルゴリズムによって媒介され、記憶はデジタル・アーカイブとして外部化される。この外部化された記憶は、常に現在に介入し、未来を先取りする。過去、現在、未来の区別は技術的に無効化され、代わりに現れるのは、異なる時間層の間の複雑な相互作用である。この相互作用のパターンこそが、21世紀における永劫回帰の具体的形態である。

超越論的資本主義は、表層的には無限の成長と拡大を志向するが、その深層においては閉じたシステムとして機能する。この閉鎖性が永劫回帰を必然的なものとする。システムは常に自己参照的であり、自らの痕跡を追いかけ続ける。進歩とイノベーションの神話は、この自己参照性を隠蔽するためのイデオロギー的装置に過ぎない。真の問いは、このシステムからの脱出が可能かどうかではなく、むしろシステムの内部で永劫回帰を肯定しつつ、新たな主体性の形式を発明できるかどうかである。この問いに対する回答は、理論的次元ではなく実践的次元に属する。永劫回帰の輪の中で、我々は常に「今」という瞬間に立ち返り、その瞬間を新たに生きることを選択できる。この選択こそが、21世紀における我々の倫理的課題である。

作成日: 2025-03-27