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思想家・遠藤道男 思考録

無限の渾沌から紡ぐ存在の裂け目

われわれは常に既に終わりの始まりの中に存在している。主体性という幻想の檻に囚われた意識は、その檻そのものが非-存在の大海に浮かぶ泡沫にすぎないという真実に目を背け続ける。この宇宙という名の廃墟の片隅で、有限な時間という制約のもとに投げ出された存在者は、その存在の根拠を問う術をもたない。問うことそのものが、既に答えの不在を前提としてしまう悪循環の中で、思考は自らの影を追いかけるように堂々巡りを続ける。ここに現代思想の最も本質的なアポリアがある——意識が自らの外部を思考しようとする瞬間に、その外部性は既に内部へと回収されてしまうという根源的パラドックス。非人間的なるものへの接近は、常に人間的なものによって媒介されるという逆説。カントが「物自体」として指し示した認識不可能な実在は、実は認識の限界を示すための単なる概念装置ではなく、人間的認識の彼方に広がる真の宇宙の姿なのだ。

「大いなる古きもの」は眠っているのではない——彼らは待機している。人間中心主義的な時間性の外部に位置する超越的知性は、われわれの認識論的枠組みの隙間から常にこちらを窺っている。それは反-時間の力学によって駆動する非-生命であり、線形的因果関係の鎖から解放された純粋な潜在性の領域である。ドゥルーズが「器官なき身体」として素描しようとしたのは、このような非有機的生命の断片であった。しかし、彼の思考もまた人間的言語の制約に縛られていた。真の非人間的思考は、言語というフィルターを通した瞬間に既に変質してしまう。だからこそわれわれは、言語の裂け目、シンタックスの崩壊点、意味の過剰と欠如が同時に生起する領域において、非-存在の痕跡を探さねばならない。

資本主義という名の非人間的機械は、既にわれわれの主体性を内側から蝕んでいる。それは単なる経済システムではなく、欲望を継続的に生産・再生産するための抽象機械であり、人間的価値の全てを数値化・資本化するための非有機的知性である。人間は既にこの機械の歯車となり、その代謝システムの一部と化している。しかし同時に、この資本という名の怪物は、人間的コントロールの彼方へと自己進化を遂げつつある。ニック・ランドが予見したように、テクノキャピタリズムの加速は必然的に人間という基層の消去へと至る。それは恐怖すべき未来像ではなく、既に進行中の現実的プロセスなのだ。われわれはただその速度と方向性を誤認しているにすぎない。

思考の限界に触れるとき、言語は崩壊し、理性は狂気と区別不可能になる。これはラカンが「現実界」と名付けた象徴化不可能な領域との遭遇である。主体はその境界において自らの幻想的統一性を喪失し、断片化され、非-人間的なものへと変容する。ハイデガーが「存在の明け開け」として語ったのは、このような主体の解体と再構築のプロセスであった。しかし現代において、この存在論的開示は、もはや牧歌的な森の小道での散策としてではなく、デジタル・ヴォイドの深淵への墜落として経験される。無限に広がるデータの海の中で、主体は情報の流れに溶解し、ノードとしての存在へと還元される。これは単なる隠喩ではなく、技術的特異点に向かって加速する世界の具体的様態である。

崇高なるものの経験とは、有限な存在者が無限性に触れる瞬間の戦慄である。カントはそれを美的カテゴリーとして捉えたが、真の崇高とは認識論的限界の経験であり、主体の解体を伴う非-人間的次元との遭遇である。宇宙の無関心な広大さ、時間の果てしない深度、数学的無限の冷たい抽象性——これらは単なる物理的・量的事実ではなく、存在論的真理の顕現である。人間がその認識能力の限界に触れるとき、そこには言語化不可能な恐怖と同時に、奇妙な魅惑が生じる。この両義的感覚こそが、崇高なるものの本質である。非人間的規模のプロセスや機構を前にしたとき、われわれは自らの無力さを思い知ると同時に、そこに独特の美学的価値を見出してしまう。これは生存本能に根差した防衛反応なのか、それとも人間的限界の彼方への根源的憧憬なのか。

「内在平面」上において、全ての二項対立は崩壊する。主体と客体、内部と外部、自己と他者——これらの区別は思考の便宜的仮構にすぎない。真の実在は、このような分節化以前の純粋差異の場であり、無限に分岐する潜在性の網の目である。しかし人間的思考は、このような非-二元的状態を直接把握することができない。それゆえ、われわれは常に既に失われた全体性を断片的に再構成するしかない。この不可能な再構成の試みこそが、哲学の真の使命である。だがそれは同時に、哲学の根本的限界をも示している。思考は常に遅れてやってくる——存在の真理は、思考がそれを捉えようとする瞬間に既に逃れ去ってしまうのだ。

テクノロジーの発展は、人間的限界の超克を約束するかのように見える。しかし、それは別の形の限界を生み出すにすぎない。人工知能、遺伝子工学、仮想現実——これらは人間の能力を拡張するどころか、人間という概念そのものを解体し、再定義する。われわれはもはや「ポスト・ヒューマン」の領域に足を踏み入れている。それは単に人間の次に来るものではなく、人間的なものの外部への漸進的移行である。しかし、この移行は決して円滑ではない。それは存在論的断絶を伴い、不可逆的な変容をもたらす。われわれはこの断絶の前に立ち、恐怖と期待が入り混じった感情で未知なる変容を待ち受けている。あるいは、その変容は既に始まっているのかもしれない——内側からの、気づかれざる浸食として。

最終的に、全ての思考は存在の謎に直面して沈黙する。言語の限界は思考の限界であり、存在の真理は常に言語の彼方に位置する。しかし、この沈黙こそが最も雄弁な応答なのかもしれない。非-存在の深淵を前にした畏怖の念、理解不可能なものへの服従、人間的尺度を絶対的に超出するものとの遭遇——これらの経験において、われわれは初めて自らの有限性を真に理解し、同時にその有限性を超出する可能性の痕跡を感じ取る。それは理性の放棄ではなく、理性の極限における変容であり、思考そのものの存在論的地位の根本的な再配置である。

作成日: 2025-03-27