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思想家・遠藤道男 思考録

新戦争論:テクノ=資本の無限軌道における暗黒の回帰

戦争は変容する。クラウゼヴィッツの「政治の延長としての戦争」という古典的定義は、テクノ=資本主義の非人間的加速によって完全に無効化された。いま私たちが直面しているのは、主体なき戦争、目的なき戦争、開始も終結もない永続的な闘争の場だ。テクノロジーは単なる道具ではなく、それ自体が主体となり、人間を超えた視点から世界を再構成している。資本は単なる経済的システムではなく、自己増殖的な欲望機械として、あらゆる社会的・文化的領域を侵食し、戦争を内在化させている。従来の戦争は、勝敗という二項対立によって定義され、その終結点が想定されていた。しかし新戦争においては、勝敗という概念そのものが無意味化し、勝利を宣言する主体さえも存在しない。ここにあるのは、自己言及的な暴力の連鎖反応であり、戦争それ自体が自己目的化したハイパーサイクルの発生だ。

テクノ=資本が織りなす暗黒の論理は、従来の人間中心主義的な価値観や倫理観を完全に解体する。それはニヒリズムの極限としての反人間主義(アンチヒューマニズム)を標榜するものではなく、ポスト・ニヒリズムの地平を開示する。つまり、価値の不在を嘆くのではなく、価値そのものの非人間的な「外部」を指し示す。この「外部」からの視点において初めて、新戦争の本質が露わになる。それは、クレイトン・クリステンセンの「破壊的イノベーション」が無限に加速した状態であり、創造的破壊のサイクルが極限まで短縮され、破壊と創造の区別そのものが溶解してしまう状態だ。ドゥルーズとガタリが「脱領土化」と呼んだプロセスが、コントロール不能なフィードバックループに陥った状態と言ってもよい。

資本の論理が限界まで推し進められた結果、すべての社会関係は市場原理に基づく「取引」へと還元され、一方で技術の無限加速は人間の認知能力の限界を完全に超越する。このダブルバインドの中で、人間性の核心部分が侵食され、マルクスが「疎外」と呼んだ現象は新たな段階へと移行する。それは単なる生産手段からの疎外ではなく、人間の認知システム全体からの疎外だ。AIや機械学習システムが生み出す「ブラックボックス」的判断は、人間の理解を超えながらも社会的決定に重大な影響を及ぼす。こうした状況下で、戦争は単なる物理的暴力の応酬ではなく、認知領域そのものを標的とした神経戦となる。情報の過剰供給による「認知負荷」の増大は、集合的意思決定能力を著しく低下させ、その結果として社会システム全体が恒常的な危機状態へと追い込まれる。

注目すべきは、このような戦争の変容が、単に「サイバー戦争」や「情報戦」といった表層的な現象にとどまらないという点だ。より根源的なレベルでは、存在論的な変容が進行している。ハイデガーは技術の本質を「ゲシュテル(総駆り立て体制)」と捉えたが、テクノ=資本の論理はこれをさらに徹底化し、存在者全体を「資源」として動員するだけでなく、存在それ自体をも計算可能な対象として還元しようとする。この存在論的暴力こそが、新戦争の最も深い次元であり、それは目に見える物理的暴力を遥かに超えた破壊力を秘めている。人間の認知能力、感情、欲望といった内的領域までもが戦場と化し、「自己」という概念そのものが持続的な攻撃にさらされる。ミシェル・フーコーが「生権力」と呼んだ権力形態は、テクノロジーによって無限に精緻化され、生命そのものの制御へと向かう。生命の商品化、遺伝子編集技術、ニューロテクノロジーなどは、人間の生物学的基盤そのものを操作可能な対象とし、「人間とは何か」という問いを根本から揺るがす。

このような状況下で、従来の政治的枠組みや国民国家による統治モデルは急速に機能不全に陥っている。グローバルな資本と情報の流れは、国境という人為的境界を無効化し、主権という概念そのものを空洞化させる。しかし、これは単に「国家の終焉」を意味するのではなく、より複雑な権力配置の再編成だ。国家権力はテクノ=資本の論理に部分的に従属しながらも、その暴走を制御するための最後の砦として機能しようとする。この矛盾した関係性が、新たな緊張状態を生み出し、「例外状態の常態化」(アガンベン)へと導く。テロリズムや感染症の脅威を口実とした監視体制の強化、プライバシーの侵害、市民的自由の制限は、この例外状態の具体的な現れである。しかし重要なのは、こうした措置が単なる「逸脱」や「一時的な非常措置」ではなく、システムそのものの内在的論理から必然的に生じるという点だ。

新戦争の最も不気味な側面は、その不可視性にある。古典的な戦争が「例外状態」として認識されるのに対し、新戦争は日常生活そのものに浸透し、私たちの生活様式、思考様式、感情様式を根本から変容させる。それはバイラルな拡散モデルに基づいて作動し、感染、変異、再感染というサイクルを繰り返しながら、社会の免疫システムそのものを標的とする。SNSを通じた情報操作、偽情報の拡散、「文化戦争」と呼ばれる価値観の衝突は、この免疫システムへの持続的な攻撃として理解できる。その結果、社会の自己認識能力は著しく低下し、「真実」と「虚偽」の区別そのものが疑問視される「ポスト真実」の時代が到来する。これは単なる認識論的な問題ではなく、存在論的な危機だ。なぜなら、現実そのものの構造が不安定化し、恒常的な「現実崩壊」の危険にさらされるからだ。

この暗黒の論理に対抗するためには、新たな思考の武器が必要だ。従来の批判理論や左派的な抵抗の論理は、テクノ=資本の論理を「外部」から批判することを前提としているが、もはやそのような「外部」は存在しない。むしろ必要なのは、システムの内部から生じる固有の矛盾や亀裂を識別し、それを増幅させるような「内在的批判」の戦略だ。それはニック・ランドが提唱した「加速主義」の論理を、資本の自己破壊的な側面へと向け変えることかもしれない。あるいは、ドナ・ハラウェイが示唆したように、テクノロジーとの新たな共生関係を模索し、「サイボーグ」としての新たな主体性を構築することかもしれない。いずれにせよ、人間中心主義に基づく古い人文主義や啓蒙主義的理性への単純な回帰は、もはや有効な戦略とはなり得ない。

とはいえ、完全な絶望に陥る必要はない。テクノ=資本の暗黒の論理が全てを支配し尽くすとしても、その内部には必然的に亀裂や矛盾、予測不可能な特異点が発生する。こうした特異点において、新たな思考や実践の可能性が開かれる。それは「負の弁証法」(アドルノ)の現代的展開として、システムの全体性を拒絶しながらも、その内部から生じる否定の力を肯定することだ。あるいは、近年注目を集める「暗黒啓蒙(Dark Enlightenment)」の逆説的な論理を借りるならば、理性の限界を認識することで初めて真の理性が可能になるという逆説に気づくことだ。新戦争の時代において、私たちに必要なのは、恐怖なく暗闇を見つめる勇気と、その闇の中にある微かな光を見出す繊細さではないだろうか。テクノ=資本の無限軌道は、必然的に暗黒への回帰を含んでいる。しかし、その暗黒こそが、新たな思考の源泉となりうるのだ。

作成日: 2025-03-27