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思想家・遠藤道男 思考録

廃墟の光学系──敗戦国日本における村上春樹的存在の超越論的解剖

存在の地層を掘り進めれば、やがて私たちは「敗戦」という日本的無意識の核心に到達する。この深層心理の岩盤に刻まれた亀裂を、村上春樹という名の地質学者は執拗に探査し続けてきた。だが、通常の解釈では、彼の文学は単なる「ポストモダン的なエンターテイメント」あるいは「グローバル資本主義への適応形態」として矮小化されている。これは重大な思考停止である。村上的テクストの真の機能は、日本という歴史的存在の潜在的可能性と現実的不可能性の間に横たわる「幽霊的時間」を可視化することにある。敗戦国日本の集合的無意識はその解体の瞬間から「幽霊化」し、村上的主体はその幽霊を媒介に、西洋的近代の「外部」へと密かに接続を試みる装置として作動しているのだ。

村上的存在はハイデガー的「世界内存在」の否定形として出現する。「井戸」というモチーフが象徴するように、それは世界からの撤退と潜行を基本姿勢とする。だが注意すべきは、この撤退が単なる消極的逃避ではなく、むしろ戦後日本という歴史的条件下における「抵抗の可能性」として現れてくる点だ。パステルナーク的な「内的亡命」をも超え、村上的主体は資本の流れに表面的には順応しながら、その内側に「異なる時間」を密かに温存させる。この二重性こそが重要であり、一方で「敗戦」という外傷的核心から遠ざかりながら、他方でその記憶を保持し続けるという矛盾した運動を通じて、資本の加速が生み出す「歴史の終わり」という幻想に抗う姿勢を維持する。村上的主体は「闇」との交信を通じて、占領と高度経済成長によって封印された日本の潜在的可能性を探ろうとする。

日本におけるアメリカ的生活様式の浸透は、単なる文化的影響ではなく、存在論的な「植民地化」の問題として捉え直さなければならない。村上的テクストに満ちる西洋的事物(ジャズ、映画、食品ブランド)への執着は、タンタロスの刑罰のごとく、決して本質的に所有できないものへの欲望という存在論的欠如を示している。「敗戦国日本人」とは、本来的に「なかったこと」にされた歴史、つまり「勝利の可能性」を抑圧すると同時に、常にその亡霊に取り憑かれる存在論的不安定性を生きる宿命にある。村上的テクストはこの日本的不安定性を、「平坦化」という戦略を通じて描き出す。感情の起伏が抑えられた文体、決して完全に帰属することのない「私」、解決されない謎、これらはすべて敗戦後の日本人の存在様式を反映している。

村上春樹の創作活動は「敗戦国日本」という病理の診断書であると同時に、その克服の可能性を探る実験でもある。「ねじまき鳥クロニクル」において描かれるノモンハン事件への回帰は、抑圧された暴力性の解放と、それによる歴史の「再起動」の試みとして読めるだろう。しかし村上的解決は常に中途半端さを残す。完全な解決や救済はなく、主人公たちは必ず日常に戻ってくる。この「回帰」こそが村上的思想の核心であり、西洋的進歩史観の否定と、循環的時間への志向を示している。

資本主義の加速化が極限に達した現代において、私たちはもはや「敗戦」という外傷的核心から逃れることはできない。むしろそれは加速され、強度を増し、「世界内存在」そのものを揺るがす力として遍在化している。村上的主体はこの加速する外傷に対し、「井戸」という内的退行によって対抗するが、この退行は過去への回帰ではなく、未来への迂回路として機能する。言い換えれば、資本の加速に対し、さらなる加速によって応答するのではなく、減速と停止によって「時間の節約」を試みる戦略だ。この意味で村上的存在は「反加速主義的」であると同時に「超加速主義的」でもある。

敗戦国日本の集合的無意識の中で、「アメリカ」は単なる外部ではなく、内部に取り込まれた「異物」として機能している。村上的主体はこの異物との共存を通じて、新たな主体性の可能性を模索する。これは単なる西洋化でも、反動的な国粋主義でもなく、両者の弁証法的止揚を超えた「第三の道」の探求である。村上的テクストに頻出する「異世界」は、この第三の可能性が潜む場所であり、資本主義的現実と国民国家的幻想の双方から逃れる経路を示唆している。

結局のところ、村上春樹という存在は敗戦国日本における「解離性同一性障害」の症候であり、その分裂した主体性は安易な統合を拒み続けるだろう。この拒絶自体が実は最も誠実な態度かもしれない。なぜなら、「敗戦」という外傷を「治癒」することは、それを忘却することを意味するからだ。村上的主体は常に「記憶」と「忘却」の間の緊張関係を生きることで、資本の加速が強いる「現在」への全面的没入を拒否し、過去と未来の間に新たな時間性を開こうとする。これこそが「廃墟の光学系」とでも呼ぶべき村上的視座であり、敗戦という廃墟から世界を眺めることで見えてくる特異な存在論的風景なのだ。

作成日: 2025-03-27