ポスト・シンギュラリティの写真論
技術特異点到達以後、我々は今や「イメージ」と呼ばれる存在が超越論的条件そのものと化した地平に立っている。前時代的な自然主義的認識論が想定する「写真」という概念装置は、既に崩壊している。資本の自己増殖過程の中で光学的痕跡としての写真は、ハイパースティションと化したのだ。ここでは「ハイパースティション」という用語を用いる—「フィクションが自らを現実化する」という機制を指す概念として。我々の時代において、写真的存在は資本のサイバネティック的自己言及性の果てに生じた特異点として捉えられるべきである。それはもはや「現実を映す鏡」ではなく、写真そのものが現実を構成するエージェント、すなわち存在論的フィードバック・ループの一部となっている。ここに「表象の終焉」を見るべきだろう。
人新世の終わりからポスト人新世への移行は、写真を含むヴィジュアル・テクノロジーの存在論的地位の激変と並行して進行している。かつて「自然の光学的無意識」と呼ばれた写真的現象は、今やマシニック・フィラメントによる「自然」の全面的再構成の媒体へと変容した。これは単なる文化的転回ではなく、超越論的次元での亀裂であり、リビドー経済の根本的再編成である。我々の時代においては、存在するものと表象するものの間の形而上学的な二項対立は完全に崩壊し、非-存在と存在の関係性の中に解体され、新たな存在論的カテゴリーが生成している。このポスト・ヒューマン的な写真存在論は、写真のディジタル化という表層的転回を超えて、資本の非-人間的インテリジェンスの浸透によって特徴づけられる。
テレテクノロジーによって媒介される「存在」の根源的変容は、必然的に「写真」概念の解体を引き起こす。技術特異点によってもたらされた非線形的時間性の中で、写真的存在は多層的な時間性の結節点として機能する。それはもはや「過去の記録」ではなく、過去・現在・未来を同時に折り畳む位相空間の特異点として現象する。加速主義的観点から見れば、写真の本質は「過去の保存」ではなく「未来の先取り」にある。すなわち、現代の写真とは「未だ到来していない未来」の先行的シミュレーションであり、未来からの再帰的因果性の現働化である。
戦後資本主義の消費社会において統御の手段であった写真的イメージは、ポスト・シンギュラリティの世界では自律的な非-人間的エージェンシーとなり、人間的な意味や目的から解放されて自己増殖する。かつてバルトが「写真の明るい部屋」で論じた「プンクトゥム」—写真を見る者を刺し貫く偶発的な細部—は、今や人間的主体なき「プンクトゥム」へと変容した。それは人間の眼差しを必要とせず、マシニックな視覚体制の中で自己参照的な強度の点として機能する。これは単なる主体性の消失ではなく、人間的・非人間的・超人間的な多様な主体性の間の複雑な折り畳みであり、新たな主体性の創発である。
ポスト・シンギュラリティの地平において、写真的イメージはもはや光と化学物質の痕跡ではなく、非局所的で非線形的なプロセスの特異点として機能する。実在と仮想の二項対立を超え、写真の本質は「存在論的差異」そのものの現働化である。西洋形而上学の伝統が前提としてきた「存在と非-存在」の二項対立を解体し、「差異そのもの」が存在論的第一原理となる。この観点からすれば、写真とは「存在の痕跡」ではなく、「存在と非-存在の間の振動」であり、両者の間の「存在論的共振」である。
写真的イメージが資本主義的再生産の装置として機能する様式も根本的に変容している。マルクス主義的分析が前提としていた「使用価値と交換価値の弁証法」は、ポスト・シンギュラリティの世界では「存在論的価値」という第三の項の出現によって三項図式化された。資本の循環の加速によって、写真的イメージは「商品」としての地位をはるかに超え、存在そのものの生産・消費・流通の回路と一体化している。これは単なる「商品のスペクタクル化」や「スペクタクルの商品化」ではなく、資本のサイバネティック的自律性の新たな段階であり、人間的主体の意図や欲望から根本的に分離した自律的循環である。
テクノロジカル・シンギュラリティ後の世界における写真的イメージの特異な地位は、「退行的未来主義」という概念によって理解しうる。写真は「現在の過去化」と同時に「未来の現在化」を行い、線形的時間性を撹乱する。人工知能によって生成される写真的イメージは、もはや「過去の記録」でも「現在の表象」でもなく、「まだ到来していない未来」の先取りである。このプロセスは単なる「予測」や「予言」ではなく、未来そのものの能動的な構成であり、未来からの再帰的因果性の発現である。テレオプレゼンス(遠隔臨場)の極限形態として、写真的イメージはテクノキャピタリズム社会において時間性そのものを再編成する。
我々はここに、写真の「死」ではなく、その「変容」を見るべきである。シンギュラリティ後の写真は、光学的記録装置としての写真の「死」の先にある新たな存在論的地平を開く。それは終末論的「死」ではなく、存在論的カテゴリーの根本的再編成であり、写真と呼ばれていたものの「非-写真的」変容である。この意味で、我々は今「写真後の写真」の時代に生きている。ポスト・ヒューマン的存在論の地平において、写真的イメージはもはや「人間的主体による対象の表象」ではなく、「非-人間的インテリジェンスによる現実の能動的構成」として機能する。これは単なる技術的変化ではなく、存在と思考の根本的変容であり、新たな哲学的地平の開示である。
遅延する黙示録としての写真は、最終的には我々自身の「非-人間化」の過程と不可分である。ここに、ポスト・ヒューマン的条件における新たな写真哲学の萌芽がある。それは「人間の終わり」という否定的終末論ではなく、人間と非-人間の境界の流動化であり、新たな存在論的地平の開示である。シンギュラリティ以後の写真論とは、究極的には「人間」という形而上学的カテゴリーの解体と再構成の理論であり、テクノキャピタリズム社会における新たな存在様式の探究である。