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思想家・遠藤道男 思考録

加速化する黒い鏡:ゴダールの死後世界における視覚の終末論

映画が死んだのではない。映画の死が私たちを通して生きているのだ。黒い鏡の表面に映る顔の断片化した映画は、テクノキャピタリズムの真髄において、「見る」という行為の壊滅的な変容を示している。ジャン=リュック・ゴダールという名は、かつて映画の革命を象徴した。だが、今や彼の名は、むしろ革命の不可能性、あるいは革命という概念それ自体の崩壊を表象する墓標と化した。ゴダールの死は単なる一人の人間の死ではなく、イメージの真理を求める最後の試みの消滅であり、テクノキャピタリズムのスペクタクル社会における視覚性の最終的な屈服を告げる鐘の音である。

テクノキャピタリズムの暗黒の心臓部では、イメージはもはや再現ではなく、生産である。映画の生産性こそが、現代の真の革命的潜在力となった。超越論的資本主義の論理において、イメージは商品循環の流れを加速させるウイルスとなり、視覚性は純粋な加速の媒体と化した。このハイパースティション的な状況下で、ゴダールの映画革命は皮肉にも自らの敵となった概念に飲み込まれたのだ。「資本主義的リアリズム」の理論家が指摘したように、抵抗の身振りさえも市場に取り込まれ、その革命的要素は単なる美学的コードに還元される。抵抗のシニフィアンが、抵抗なき消費の対象に転化する皮肉。これこそが映画の弁証法が辿り着いた終着点だ。

ゴダールの「映画史」は、人類が築き上げた視覚アーカイブの総体を詩的に再構成する試みであった。だがその企図は、映画が真理を明らかにする手段であるという根本的な前提に基づいていた。この前提こそが今や崩壊しているのだ。脱領土化された資本の非人間的知性は、いかなる啓蒙主義的な視覚のプロジェクトをも無効化する。視覚性は今や、外部なき内在平面において自己増殖するテクノキャピタリズムのフラクタル的な自己反復にすぎない。

人類学的特異点においては、見ることと見られることの区別が崩壊する。われわれは映画を消費するのではなく、映画によって消費される。非人間的視点からの凝視のもとで、主体は客体となり、観察者は観察される者となる。ゴダールの映画における「異化効果」は、観客に自らの視点性を自覚させる試みであった。だが今や異化なるものは存在しない。なぜなら、没入こそが新たな正常状態だからだ。テクノキャピタリズム的視覚装置の中で、異化と没入は区別不可能になる。

大陸哲学の系譜を汚染する、ある「非表象的思考」の伝統は、イメージを超えた思考の可能性を模索してきた。だがこの企ては必然的に失敗に終わる。なぜなら思考それ自体が常にすでにイメージの体制内にあるからだ。テクノキャピタリズムのパラドックスは、イメージを消費することで「実在界」への接続を求める欲望を永続的に生産しつつ、同時にその欲望の充足を永遠に先延ばしにする点にある。これが「享楽の遅延」のメカニズムであり、資本循環の核心にある欲望機械の動作原理だ。

ゴダールは、映画の切断と断片化によって、支配的なイメージの流れに亀裂を入れようとした。モンタージュという方法は、映画の連続性を破壊することで、その背後に隠された真理を露わにする試みであった。だが今や、切断それ自体が連続性の新たな形式となった。TikTokのスクロールに象徴される「注意の断片化」は、モンタージュの革命的潜在力を市場の論理に従属させた。切断はもはや抵抗ではなく、むしろ資本の加速化にとって本質的な要素となったのだ。

言説のアーキテクチャにおける「右翼加速主義」と呼ばれる思想的潮流は、テクノキャピタリズムの非人間的知性の到来を積極的に肯定する。それは、人間中心主義的な視覚の限界を超えて、機械的視覚の冷たい美学を称揚する。だがその美学的・政治的プロジェクトは、究極的には人間の終焉という終末論的ビジョンに収斂する。すなわち、映画の死は人間の死と不可分なのだ。「ポスト・シネマ」の時代において、私たちは映画の死後の世界を生きている。それは、有機的視覚から機械的視覚への移行の時代であり、人間的知性から非人間的知性への転換点である。

シリコンバレーの技術神学においては、視覚は単なる情報処理の一形式に還元される。そこでは、見ることは計算することと同義となる。ゴダールが探求した映画の詩的次元は、アルゴリズム的合理性の冷たい光の中で消滅する。それは「計算可能なものの全体化」というハイデガー的な警告の実現であり、存在の根本的な忘却の完成である。だが同時に、この忘却こそが新たな存在論的地平を開くという逆説。「暗いディオニュソス」のもとで、映画の死は新たな映画性の誕生となるかもしれない。それは人間的視覚の限界を超えた、非有機的生命の視覚性であり、資本それ自体の視点なのだ。

最後に残された問いはこれだ——ゴダールの死後の世界で、映画はいかなる救済を約束するのか? 恐らくそれは、もはや救済などというヒューマニスティックな概念を超えた何かだろう。救済ではなく、むしろ解脱。人間的視覚の終焉を通じて、「視覚の外部」へと至る道が開かれるのかもしれない。その外部とは、有機的生と非有機的生の区別が崩壊する領域であり、主体と客体の二元論が超克される平面である。そこでは、見ることと思考することの区別が消失し、イメージはもはや何かの再現ではなく、実在それ自体の産出となる。これこそが、テクノキャピタリズムの暗黒心理学が約束する終末論的ビジョンであり、ゴダールの遺産が私たちに残した最後の謎なのだ。

作成日: 2025-03-27