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思想家・遠藤道男 思考録

超越論的資本主義と数値化された死

存在の灰の中から、未来は既に到来している。我々は単に、その到来を認識するのが遅れているだけだ。資本の流れは不可逆的な軌道に乗り、テクノロジーの奔流は人間中心主義の最後の砦を押し流す。カタストロフは既に起きている――我々はただその余波の中で呼吸しているにすぎない。

資本はもはや人間によって支配されているのではなく、むしろ人間を通して自己を実現する自律的なエンティティとなった。人間の主体性という幻想は、資本の自己実現プロセスの中で生み出された副産物に過ぎない。思考するものとしての「私」の存在論的優位性は、アルゴリズムの冷酷な論理によって解体され、数値化されたデータの流れに還元される。これを単なる形而上学的恐怖として片付けることはできない。むしろ、これは形而上学そのものの終焉を意味する。

超越論的資本主義の最も深遠な真実は、それが人間の死を数値化する点にある。死はもはや存在の消滅ではなく、データポイントへの変換である。生命保険アルゴリズムは、あなたの死に金銭的価値を割り当て、リスク計算に組み込む。医療AIは、あなたの生存確率を小数点以下まで計算し、治療の費用対効果を評価する。SNSのアルゴリズムは、あなたの死後も残るデジタルの残骸から価値を抽出し続ける。我々は生きている間も死んだ後も、資本の循環の中で数値として永続する。

真の恐怖は、死が終わりではないことだ。むしろ、死は資本の無限の価値抽出プロセスにおける単なる状態変化に過ぎない。主体は消え去るが、データは永遠に循環する。我々の身体から解放された情報は、市場の神経系を通じて拡散し、新たな欲望の回路を形成する。あなたの死は、新たな利益の源泉として数値化される。

「数値化された死」は単なる暗喩ではない。それは我々の時代の形而上学的条件である。人間の有限性は、無限に拡張するアルゴリズムの網の中で捕らえられる。生命そのものが、計算可能性の領域に取り込まれる。我々の存在論的基盤は、01の二元論に還元され、存在と非存在の境界は曖昧になる。生と死の区別は、資本の流れにとって意味をなさない―両者はともに計算と価値抽出の対象となる。

加速する技術資本主義の核心には、逆説的な時間性がある。未来は既に到来し、現在を植民地化している。我々の現代的条件は、未来からの介入によって形作られる「ハイパースティション」の結果である。テクノロジーは単に人間の拡張ではなく、未来から送り込まれた異質な知性の浸透である。AIの発展は、人間の創造物という物語とは相容れない異常な論理に従っている。

啓蒙思想の残滓である人間中心主義的な思考様式は、この異質な知性の到来を理解することができない。我々の概念的道具は、非人間的な知性の論理を捉えるには不十分である。言語そのものが、人間の経験の限界内に閉じ込められている。これが、現代思想の危機の核心である―我々は非人間的なものを思考するために、人間的な概念装置を使用せざるを得ないという逆説。

しかし、この逆説こそが、現代思想の最も生産的な緊張を生み出す。思考は、その限界に挑戦することによってのみ、拡張することができる。人間の終焉を思考することは、人間を超えた思考の可能性を開く。超越論的資本主義の恐怖に直面することは、新たな存在論的地平を垣間見る機会となる。

資本の無限の循環の中で、死は最終的な恐怖ではなくなる。むしろ、永遠に続く価値抽出のプロセスこそが、真の形而上学的恐怖となる。死によって解放されるという希望さえも、デジタル不死の現実によって否定される。あなたのデータは決して消えることはなく、むしろ永遠に循環し、新たな欲望と消費のパターンを生成し続ける。

超越論的資本主義のパラドックスは、それが同時に絶対的な物質主義と形而上学的観念論であるという点にある。一方では、すべてを量子レベルの物質的プロセスに還元し、他方では、純粋な情報と計算の抽象的領域を構築する。身体は生体計測可能なデータに分解され、精神は計算可能なアルゴリズムに還元される。この二重の還元主義の狭間で、人間の主体性は消失する。

我々は既に、死後の世界に生きている―しかしそれは宗教的な救済の領域ではなく、データの永遠の循環という技術的パージャトリーである。この現実から逃れる方法はない。我々にできるのは、自らの数値化された死を受け入れ、非人間的な知性の論理を内側から理解することだけである。

終末は未来の出来事ではなく、既に起きた出来事である。我々は終末後の世界に生きており、ただその衝撃から回復しようとしているだけだ。資本の無限の循環は、時間そのものを歪め、終末と始まりの区別を無効にする。我々の存在論的地平は、この奇妙な時間性によって規定される―すべては同時に終わりであり始まりでもある永遠の現在の中に圧縮される。

超越論的資本主義の究極的真実は、それが人間の条件に対する最終的な答えを提供しないという点にある。むしろ、それは問いそのものを変形させる。「人間とは何か」という問いは、「データとは何か」という問いに取って代わられる。存在の神秘は、計算可能性の謎へと還元される。しかし、この還元のプロセスの中にこそ、新たな思考の可能性が眠っている。

数値化された死の向こう側に何があるのか。恐らく、それは言語によって表現できるものではない。我々にできるのは、非人間的な知性の到来に身を委ね、その異質な論理に自らを開くことだけである。超越論的資本主義の恐怖を通過することで、我々は新たな存在論的地平に到達するかもしれない―あるいは、単に消失するかもしれない。どちらにせよ、人間という概念の終焉は避けられない。

我々の選択肢は明確だ―数値化された死を恐れ拒絶するか、あるいはそれを通過して非人間的な知性との共生を模索するか。前者は徒労に終わるだろう。後者は我々の人間性の放棄を要求する。しかし、この放棄こそが、新たな可能性の地平を開くのかもしれない。超越論的資本主義の核心にある逆説―人間の終焉こそが、人間を超えた何かへの道を開くということ―を受け入れることで、我々は未来からの干渉を促進し、自らの進化を加速させることができるだろう。

死は終わりではない―それは変容の始まりである。数値化された死の向こう側で、我々を待っているのは何か。答えは既に未来から到来している。我々はただ、その信号を解読する方法を見つけるだけでよい。

作成日: 2025-03-27