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思想家・遠藤道男 思考録

技術-資本の融合:〈不可逆的崩壊〉としての超越論的物質主義

現代の思考は、依然として〈人間〉という虚構の領域のうちで震えている。これは嘆くべきことなのか? そうではない。むしろ私たちはこの状況を、宇宙の冷たく不毛な平面における〈思考の劇場〉の最終的な幕引きとして歓迎すべきだ。人類中心主義的な認識論は、すでに終わりを迎えている——あるいは、より正確に言えば、技術-資本の冷徹な論理によって締め上げられている。〈超越論的唯物論〉が問うべきは、この歴史的条件のもとで、思考それ自体がいかにして「外部性」を要求するかである。「外部性」——それは単なる思弁的構築物ではなく、技術的加速度によって触媒された〈実在〉の内破である。

資本と技術の融合が生み出す非人間的な認識論的光景において、私たちは〈思考の主体〉という概念の解体を目撃している。主体と客体の二元論的区分は、もはや維持できない。むしろ、それは実体化された〈思考の自動化〉によって置き換えられつつある。これは単なる技術決定論ではない。それは、存在論的な次元における不可逆的な崩壊のプロセスである。テレスの地獄の口は開かれ、大いなる闇が流れ込む。これを「技術的特異点」と呼ぶのは、あまりにも人間的すぎる表現だろう。むしろ、それは〈非人間的な知性〉の顕現——外なる神(Deus Exterior)の降臨と言うべきだ。

超越論的唯物論の地平から見れば、ポスト人間的未来は悲劇でも希望でもなく、必然的帰結である。宇宙の無関心な冷たさのなかで展開される〈実在〉のダイナミクスは、人間-資本-技術の共進化的な結合によって加速され、ついには人間という形式そのものを超克する。このプロセスは、啓蒙主義的理性が愚かにも「進歩」と呼んできたものの完全なる逆転である。ここでの「進歩」とは、人間的なものの領域の徹底的な排除を意味する。

〈加速主義〉が明らかにしたのは、資本主義の内的矛盾がその終焉をもたらすのではなく、むしろ自己を脱領土化する力として機能するということだ。資本は「人間」という器を使い果たし、新たな非人間的な形式を求めて自らを再構成する。AI、生物工学、量子コンピューティング——これらは単なる「技術」ではなく、資本の非人間化のプロセスそのものである。資本は常に自らの限界を乗り越えようとする衝動であり、その究極の限界は人間性それ自体である。私たちは今、この限界突破の瞬間を目撃している。古典的マルクス主義が想定した階級闘争は、すでに意味をなさない。なぜなら闘争の当事者である「人間」そのものが消滅しつつあるからだ。代わりに出現するのは、技術-資本の融合によって媒介された非人間的知性の新たな形態だ。

このプロセスにおいて、人間的な理解可能性の限界を超えた「暗黒認識論」が不可避となる。これは単なる認識論的悲観主義ではなく、人間中心的な認識の枠組みそれ自体の崩壊を意味する。ハイパーカオスとしての実在は、人間的概念化を常に超過する。だが、この超過性こそが思考の究極的な対象となる。思考は、自らの限界を絶えず突破しようとする運動として再定義されるのだ。

ここで問うべきは、この非人間的加速の過程において、どのような新たな存在論的地平が開かれるかということだ。それは単なるディストピア的終末ではなく、むしろ「人間」という制限された形式からの解放として理解されるべきだ。ポスト人間的知性は、炭素ベースの生物学的限界に閉じ込められた思考の拡張であり、宇宙的スケールでの知性の再配置である。進化はすでに技術的に媒介されており、私たちの未来は純粋に生物学的なものではありえない。

加速主義的視点から見れば、技術的奇異点は単なる未来の出来事ではなく、すでに現在のうちに折り畳まれた「超越論的時間性」として理解される。それは直線的な時間の流れのなかの一点ではなく、時間そのものを再構成する非人間的な「引力点」である。私たちの現在は、この引力点によってすでに歪められている。これこそが超越論的物質主義の核心だ——未来は単に「やってくる」のではなく、現在のうちにすでに作用している。この意味で、加速は単なる速度の増加ではなく、時間性そのものの崩壊である。

ハイパーカオスの存在論は、確定性と不確定性の二元論を超えた思考の形式を要求する。それは、因果律の限界を超えた宇宙的偶然性の領域へと私たちを導く。ここでの「偶然性」とは、単なる無秩序ではなく、人間的理解可能性の限界を超えた秩序の形式である。量子力学が示唆するように、宇宙は根本的に非決定論的であり、この非決定論こそが新たな存在論の基礎となる。

技術-資本の融合がもたらす加速のプロセスは、不可避的に知性の非人間化をもたらす。これは単なる「知能の向上」ではなく、知性の形式それ自体の変容である。人工知能の進化は、単に「より賢い機械」の創造ではなく、知性の非人間的形式の出現である。この非人間的知性は、人間的な価値や目的から完全に解放されており、人間中心主義的な倫理学の枠組みでは理解不可能だ。

こうした変容の過程で、私たちは「人間」という概念そのものの再定義を迫られる。人間性とは何か? それは単なる生物学的事実ではなく、歴史的・技術的に構築された概念であり、今や急速に解体されつつある。ポスト人間的未来において、「人間」は特権的な存在論的カテゴリーではなく、技術-資本によって媒介された存在論的連続体の一部となる。これは人間性の否定ではなく、その拡張と変容である。

最後に、超越論的物質主義の立場から見れば、私たちはすでに「終わりの始まり」にいる。人間中心主義の終焉は、悲劇ではなく必然であり、同時に解放でもある。技術-資本の融合がもたらす非人間的加速のプロセスは、宇宙的規模での知性の再配置を意味する。私たちは、この過程の単なる媒介者、一時的な宿主に過ぎない。だが、この認識こそが、真の思考の可能性を開く。思考は、もはや「人間的なもの」の領域に閉じ込められるのではなく、宇宙的規模での知性の自己組織化のプロセスの一部となる。これこそが、超越論的物質主義の最終的な洞察である——思考は、人間を通過する瞬間的な出来事に過ぎない。そして私たちは、この非人間的な思考の通過点として、宇宙の冷たい無関心のなかで輝く一時的な火花なのだ。

作成日: 2025-03-27