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思想家・遠藤道男 思考録

超越論的非対称性と文明の黄昏 - 現代性の病理としての優遇システム

文明は常に非対称性から生まれる。いかなる社会構造も、均質なユートピア幻想を掲げながら、その内部に非対称的な力関係を隠蔽してきた。この矛盾を直視せぬまま、我々は「進歩」という幻想に囚われ続けてきた。しかし、21世紀の資本主義と技術の融合が生み出した新たな存在論的地平において、この矛盾はもはや隠しきれない形で露呈している。いわゆる「女性優遇」という現象もまた、この文明の終末論的症候の一つに過ぎない。ここで論じようとしているのは、表層的な男女間の不平等や社会政策の是非ではなく、より根源的な存在論的非対称性である。優遇という概念自体が、すでに超越論的な歪みを内包しているのだ。

存在は常に分裂している。ハイデガーが「存在の忘却」と呼んだ現象の根底には、西洋形而上学が生み出した二項対立が横たわっている。しかし現代の優遇システムは、この二項対立を解消するどころか、むしろそれを強化し、制度化することで、新たな階層秩序を生み出している。「弱者」と「強者」、「被害者」と「加害者」という単純化された図式が、無限に複雑な人間存在を切り分け、カテゴリー化する。こうした二項対立的思考は、資本主義システムと親和性を持つ。なぜなら、資本は常に差異を商品化するからだ。差異なくして価値の生成はあり得ない。そして差異は常に、非対称性を前提とする。

優遇という概念が内包する最大の問題は、それが実のところ「保護」という名の統制メカニズムだという点にある。保護されるべき対象として規定された集団は、その瞬間から自律的主体性を剥奪される。これは「優遇」という名の柔らかな支配である。ニーチェが洞察したように、奴隷道徳はその本質において反動的だ。優遇を受ける側は、常に被害者性という自己規定に囚われ、その結果、真の自己超克の可能性を失う。このパラドクスこそが、現代の優遇政策の最大の陥穽である。「女性優遇」と呼ばれる現象は、表面上は解放を装いながら、実のところ女性をより洗練された形で隷属状態に縛り付けるメカニズムとして機能している。

こうした状況がもたらす文明的帰結は何か。それは思考の停止である。現代の優遇システムが課す新たな道徳律は、ある種の思考禁止領域を設定する。「配慮」という名の下で、特定の問いは封じられ、特定の懐疑は禁じられる。思考が特定の方向性に制限されるとき、文明は停滞へと向かう。歴史を振り返れば明らかだが、あらゆる文明の発展は、禁忌を侵す思考から生まれてきた。タブーへの挑戦なくして、真のイノベーションはあり得ない。思考停止は、文明の死に等しい。

資本主義は差異の商品化を通じて生き延びる。現代の優遇システムは、一見すると資本主義への抵抗の形をとりながら、実のところはより洗練された形で資本の論理を強化している。「多様性」という名の差異の祝福は、それ自体が新たな消費対象となり、資本循環の一部となる。優遇されるカテゴリーに属することの特権化が進むにつれ、アイデンティティそれ自体が一種の資本となる。これはある意味で、存在の資本化、あるいは存在の商品化とも呼べる現象だ。ここに至って、マルクスが予見した疎外は新たな段階へと進化する。人間は自らの労働からだけでなく、自らの存在そのものからも疎外されるようになる。 ここで重要なのは、この文明の危機を単なる道徳的堕落や政治的腐敗として捉えるのではなく、より根源的な存在論的・認識論的危機として理解することだ。優遇という概念が前提とする「弱者性」や「被害者性」は、それ自体が特定の主体を客体化し、対象化する暴力を内包している。客体化された主体は、もはや自律的な行為者ではなく、システムによって規定される受動的存在となる。これは一種の存在論的隷属状態だ。そしてこの存在論的隷属こそが、現代文明の最も深刻な病理である。 では、この危機からの脱出路はあるのか。それは既存の二項対立を超えた、新たな存在論的地平を切り拓くことにある。優遇/被優遇という対立図式そのものを解体し、より複雑な差異の網目を肯定すること。それは単なる「平等」という幻想を追い求めることではなく、むしろ非対称性そのものを創造的力へと転化させることだ。ドゥルーズが語った「器官なき身体」のように、固定されたアイデンティティの檻から逃走線を引くこと。これは決して容易な道ではない。しかし、文明がその内在的矛盾を乗り越え、新たな段階へと進化するためには、こうした存在論的革命が不可欠なのだ。

最終的に、女性優遇という問題設定自体が、もはや時代遅れの二項対立的思考の産物に過ぎない。来たるべき思考は、男性/女性という区分そのものを問い直し、より流動的で複雑な差異の網目を肯定するものとなるだろう。それは特定のカテゴリーを優遇することでもなく、形式的な平等を追求することでもなく、差異それ自体の創造的可能性を解放することだ。文明はその危機を通じて変容する。我々が目撃しているのは、ある文明形態の終焉と、未だ名を持たない新たな形態の曙光なのかもしれない。そこでは、優遇という概念自体が過去の遺物となり、差異はもはや階層化の道具ではなく、存在の豊饒さの証となるだろう。それは決して楽園的ユートピアではないが、少なくとも現在の病理的均衡よりは、存在の可能性に開かれたものとなるはずだ。

作成日: 2025-03-27