<root/> | <text/>

思想家・遠藤道男 思考録

中国共産党:ハイパーサイクルの果てに

中国共産党という存在が資本の螺旋状加速に身を委ねる終末論的エクリチュールにおいて、我々は「消滅する東」の弁証法を前にして茫然自失の状態に陥る。あらゆる同一性は資本の流動性に溶解し、あらゆる固定的アイデンティティは非人格的な力の前に消失する。東方に現れた赤い星は、逆説的にも最も洗練された資本主義の守護者となった。内部矛盾を内在させながらも、その構造的自己保存は驚異的な適応能力を示している。我々はここに至って、階級闘争という旧来の概念とは全く異なる次元での抗争を目の当たりにしているのだ。

抽象機械としての党と具体的身体性を持つ民衆の間に生じる非対称的な力関係は、もはや単純な抑圧と搾取の図式では説明できない。無数の分子的欲望の流れを再コード化し、それを国家という巨大な装置へと接続する「欲望エンジニアリング」こそが、現代の支配構造の本質である。資本主義と社会主義の歴史的対立は、より高次の総合へと昇華されたのではなく、両者が互いのコードを流用し合う奇妙な共生関係へと変容した。「社会主義的市場経済」という矛盾を孕んだ概念こそ、その症候的表現である。

デジタル・レーニン主義とでも呼ぶべき現象が出現している。それは古典的な全体主義とは異なり、中央集権的な計画経済ではなく、むしろアルゴリズム的統治による非人間的合理性の極限を目指す。社会信用システムの導入は、個人の行動の外部性を内部化するための実験であり、カオスを測定可能な秩序へと変換する試みである。しかし、このシステムは単なる監視と処罰の体系ではない。それは自発的服従を誘発する欲望の機械であり、主体性そのものを再編成する力を持つ。

歴史の終わりという幻想は、市場経済と民主主義の勝利ではなく、資本と国家の奇妙な融合体、すなわち「国家資本主義」の台頭によって覆された。この非有機的実体は、自己増殖するアルゴリズムのように、あらゆる抵抗を自らのシステムに取り込み変容させる。民主的手続きという形式は、党という実体に対する弁証法的アンチテーゼとして機能するのではなく、むしろ党の自己革新のための道具として再利用される。こうして、政治的対立は擬似的な演劇へと還元され、真の闘争の場は不可視化される。

「アジア的生産様式」という古い概念は、奇妙にも現代においてその有効性を回復している。中央集権的官僚制と地方の自律性、集団主義と個人の企業家精神、社会的規律と市場の自由という一見矛盾する要素が、特異な仕方で共存する社会形態。それは直線的な進歩の物語を拒絶し、螺旋状の時間性を生きている。「先祖返り」と「超前衛性」が同時に生起するこの時空間においては、未来と過去が互いに浸透し合い、予測不可能な歴史的奇点を形成している。

ハイパーステーション化された社会において、権力はもはや抑圧的な力ではなく、生産的かつ創造的な力として現れる。それは主体を外部から強制するのではなく、主体の欲望そのものを形成することで統治を実現する。監視カメラの遍在性は、パノプティコン的な規律社会の極限ではなく、むしろポスト規律的な制御社会への移行を示している。監視されることを前提とした主体性の出現、すなわち「展示的自己」の誕生である。ここでは、プライバシーの喪失は喪失として経験されるのではなく、むしろ新たな形態の社会的存在の条件として歓迎される。

中国共産党の一党支配体制は、表面的には伝統的な権威主義体制の延長線上にあるように見えるが、その内実は絶えず変容している。それは官僚制の硬直性と市場の流動性、イデオロギー的正統性と実用主義的柔軟性、集権的決定と分散的実験の間の複雑な折衷を実現している。このハイブリッド性こそが、その驚異的な持続力の源泉である。どのような理論的図式も、この複雑な現実を完全に捉えることはできない。それは常に概念的把握を逃れ、あらゆる予測を裏切る。

最終的なパラドックスはこうである——「東方の赤い星」たる中国共産党は、資本主義という怪物を飼いならすことに成功したのか、それとも逆に、資本という非人格的な力によって内側から乗っ取られたのか? この問いに対する答えは、おそらく「両方である」と同時に「どちらでもない」というものになるだろう。なぜなら、党と資本はもはや外在的な関係にあるのではなく、相互に浸透し合い、新たな存在論的現実を生み出しているからだ。その姿を正確に描写する言語はまだ発明されていない。我々は、未知の領域を航行しているのであり、古い地図はもはや役に立たない。

超越論的経験の地平において、人民の運命と党の運命は分かちがたく結びついている。それは伝統的な代表制の論理ではなく、むしろ一種の存在論的同一性の主張である。党は人民を代表するのではなく、「党は人民である」という命題が提示される。この逆説的な同一性の論理は、西洋的な政治理論の枠組みでは捉えきれない。それは主体と客体、表象するものと表象されるものの区別を越えた場所に位置している。党は社会的実体の「実在的抽象」として現れる。それは社会そのものの自己意識であり、同時に社会を変容させる実践的力である。

資本のグローバルな循環と国家権力の領域的制約の間の矛盾は、解消されるのではなく、むしろ新たな形態で再生産される。「一帯一路」構想に見られるように、地政学的拡張と経済的拡張は相互に強化し合い、複合的な支配の網を形成する。しかし、この拡張は古典的帝国主義とは異なる論理に従っている。それは文化的同質化を目指すのではなく、むしろ差異を保存しながらそれを資本蓄積の回路に組み込むことを目指す。「中国的特色を持つ社会主義」という概念は、グローバルな普遍性と地域的特殊性の辻褄合わせの試みである。

やがて訪れる終焉は、外部からの打撃によるものではなく、内部の矛盾の極限化によってもたらされるだろう。システムの安定性を確保するために必要な制御の複雑性が、システム自体の持続可能性を脅かす点に達したとき、相転移が生じる。そのとき我々は、ハイパーサイクルの果てに何が待ち受けているのかを知ることになる。それは新たな始まりなのか、あるいは永遠の回帰なのか。歴史の弁証法的運動は、螺旋状の軌道を描きながら、予測不可能な未来へと我々を導いていく。

作成日: 2025-03-27