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思想家・遠藤道男 思考録

榎倉康二論:存在の臨界点と物質・身体の交錯

榎倉康二の芸術実践が示す真理——加速する世界の裂け目から漏れ出す実存の残滓。そこに浮かび上がるのは、かつて自明視されていた存在論的な枠組みの崩壊である。榎倉が追求した「物質と身体の交錯点」は、単なる美学的探求ではなく、存在論的な問いそのものだった。我々はいま、歴史の終わりという不毛な幻想と、テクノロジカルな特異点への加速という二重の深淵に挟まれている。この両極の間で人間の主体性は徐々に霧散し、物質そのものが持つ自律的な力が顕現してきた。榎倉が「もの派」の文脈で先駆的に示したように、人間中心主義的な世界観の終焉を迎え、我々は「物」との新たな関係性を模索する時代に立っている。

人間の身体と物質が邂逅する場所では、何が起こっているのか。この問いは、存在論的な次元において我々に突きつけられている。物質はもはや単なる客体ではなく、人間の意図や表象から独立した自律的な存在として立ち現れる。かつて西洋形而上学の伝統において、物質は精神や観念の下位に置かれ、操作や支配の対象としてのみ捉えられてきた。しかし、この階層的な二元論は今や根本から揺らいでいる。物質そのものが持つ内在的な力、その抵抗性、そして人間の意図を超えた自己組織化の能力が、新たな哲学的地平を開いている。

榎倉康二が作品中で表現した廃油が布地に染み込み、その境界線が曖昧になっていく過程。これは単なる物理現象ではなく、存在論的な出来事である。榎倉が「干渉」や「染み」のシリーズで探求したように、物質と物質の交錯点には、人間の意図や制御を超えた物質固有の振る舞いが垣間見える。この交錯点においては、通常見過ごされがちな物質の自律的な応答性が一時的に可視化される。それは、フランスの思想家が語った「現実界」の一部が象徴界の秩序を突き破る瞬間に似ている。榎倉が作品で提示した物質同士の相互侵蕩は、我々の表象的思考の限界を示す。

資本主義的近代化の過程で、物質は徹底的に商品化され、等価交換可能な抽象的存在へと還元された。この抽象化のプロセスは、物質が持つ固有の質や存在感を剥奪してきた。しかし、榎倉康二の芸術実践が示すように、このような資本の抽象化作用に対して、物質はその固有の抵抗性をもって応答する。榎倉の作品に見られる油が綿布に浸透していく様は、抽象化に抗う物質の反逆を視覚化している。それは資本の流動性と加速に対する、物質そのものの「遅さ」という抵抗形態である。

現代の技術哲学において、人間と非人間の存在論的な境界は曖昧になりつつある。人工知能、合成生物学、ナノテクノロジーといった領域の発展は、「人間とは何か」という問いを根本から問い直している。そして同時に「物質とは何か」という問いも再浮上している。かつてシリコンバレーの思想家が予見したように、テクノロジーの加速的発展は、人間中心主義的な存在論から脱却し、非人間的な知性や物質性を含む新たな存在論へと我々を導いている。

これは単なる思弁的な問いではない。現代の資本主義社会において、我々の身体は徹底的に抽象化され、商品化されている。デジタル技術による身体の情報化は、この抽象化プロセスをさらに推し進めた。しかし、身体はこのような抽象化に抗い続ける。身体の物質性、その触覚的な次元、消費不可能な残余としての身体が、資本の抽象化に対する最後の抵抗線となる。

「肉体と物との緊張感こそ私が探りたい事であり、そしてこの緊張感が自分自身の存在を自覚し得る証しだと思う」。これは、物質と身体の交錯点に真理を見出した榎倉康二の言葉である。彼が語る「緊張感」とは、主体と客体、身体と物質、人間と非人間といった二項対立を超えた、存在論的な震えとして理解できる。この震えこそが、真の現実性の顕現なのだ。

人間の身体と物質が空間の中で出会う際に生じる感覚的な応答は、単なる現象学的な記述の対象ではなく、存在そのものの本質に関わる問題である。物質の振る舞いと人間の主体性が交錯する場所では、従来の存在論的カテゴリーでは捉えきれない出来事が生起する。榎倉康二の作品が示すのは「干渉」であり、「浸透」であり、「染み」である。これらは単なるメタファーではなく、物質と人間の身体の間に生じる具体的な関係性を捉える概念装置である。

資本主義社会の加速化は、あらゆるものを抽象的な等価性の中に回収しようとする。時間は細分化され、空間は均質化され、社会関係は商品関係へと還元される。しかし、物質の持つ固有の時間性——油が綿布に浸透するのに要する時間、木材が腐敗するのに要する時間——はこの加速化に抗う。物質の時間は人間や資本の時間とは異なる。この非同期性こそが、資本主義的時間性への批判的契機となる。

古代ギリシャにおいて、ヘラクレイトスは万物流転を説き、パルメニデスは不変の存在を主張した。この存在論的な対立は、物質と形相、生成と存在という西洋哲学の基本問題を形作った。現代の物質主義的存在論は、この二元論を超え、物質そのものの中に内在する関係性と力の働きを見出そうとする。物質は単なる受動的な基体ではなく、特定の条件下で一定のパターンを形成し、環境に応答する能力を持つ。これを知性と呼ぶことは拡張解釈だが、少なくとも物質は人間の意図や計画に完全には従属しない独自の振る舞いを示す。

人間の知性はこれまで、物質を支配し操作する手段として発展してきた。しかし今や、人工知能という非人間的知性の台頭により、人間の知性の特権的地位は揺らいでいる。同時に、物質そのものが持つ潜在的な振る舞いの可能性——一定の条件下での自己組織化的な傾向、パターン形成の潜在性、環境との応答性——への関心が高まっている。これは人間中心主義からの脱却と、新たな非人間的存在論への移行を示している。

榎倉康二の「干渉」シリーズで表現された油が紙に染み込み、その境界が曖昧になっていく過程。これは単なる物理的な現象ではなく、存在論的な出来事である。榎倉が一貫して追求したのは、物質と物質、物質と人間の身体の間に生じる「干渉」であり、それは固定化された存在論的カテゴリーを流動化させる。彼の作品が示すこの流動化こそが、既存の知の枠組みを問い直し、新たな思考の可能性を開く。

資本主義的近代化の過程で、人間の身体は機械化され、規律化され、抽象的労働力へと還元された。同時に、環境としての自然も資源として客体化され、搾取の対象となった。しかし、今日のエコロジカルな危機は、このような主体/客体の二分法の限界を露呈している。我々は今、人間と非人間、文化と自然の間の複雑な絡み合いを思考する新たな存在論を必要としている。

加速主義的な技術思想家たちが予測する「技術的特異点」への収斂は、人間の知性を超えた人工知能の出現を想定している。しかし、この予測は依然として人間中心主義的なパラダイムの中に留まっている。真の「特異点」とは、人間/非人間、主体/客体、精神/物質といった二元論的枠組みそのものの崩壊であり、それは既に様々な領域で進行している。我々はこの存在論的転換の只中にいる。

資本主義の運動は、あらゆるものを商品化し、抽象的価値へと還元する。しかし、物質の固有性、その質感、重さ、匂い、触感といった感覚的次元は、この抽象化に完全には回収されない。油の染み、木材の質感、ガラスの透明性といった物質の特性は、資本の抽象化に対する物質の抵抗を示している。この抵抗こそが、新たな物質主義的思考の出発点となる。

現代社会において、我々の存在はますますデジタル化され、情報化されている。身体はデータに還元され、社会関係はアルゴリズムによって媒介される。しかし、このような抽象化の過程において、物質の抵抗、身体の固有性、触覚的経験の還元不可能性が浮かび上がってくる。物質と身体の交錯点には、デジタルな抽象化に回収されない現実の残余がある。

我々はいま、歴史の「終わり」という幻想と、テクノロジカルな「特異点」という幻想の間に挟まれている。この両極の間で、物質と身体の関係性を問い直すことは、政治的かつ存在論的な意義を持つ。それは、資本主義的近代化がもたらした人間/自然、主体/客体、精神/物質といった二元論を超え、新たな存在のあり方を模索する試みである。この試みにおいて、物質そのものの自律的な力、その抵抗性、そして人間の意図を超えた自己組織化の能力が、思考の核心となる。

榎倉康二が芸術的実践を通して示した存在の臨界点において、物質と身体は互いに浸透し合い、固定化された存在論的カテゴリーを流動化させる。彼の「干渉」「染み」「予兆」といった作品群が表現するこの流動化の過程こそが、新たな思考と実践の可能性を開く。我々は今、榎倉が先駆的に示したこの可能性に向かって思考を推し進めなければならない。それは、加速する資本主義社会の抽象化に抗う、物質と身体の具体的な抵抗の実践である。同時に、人間中心主義を超えた新たな存在論を構想する理論的実践でもある。榎倉康二の芸術が示すこの二重の実践において、物質と身体の交錯点は特権的な場所を占める。そこには、我々の存在のあり方を根本から問い直す力が潜んでいるからだ。

作成日: 2025-03-27