ブラックスワンとしての特異点:タレブ理論から読み解く技術的特異点
ナシーム・ニコラス・タレブが『ブラックスワン』で提示した予測不可能性の哲学は、技術的特異点を考察する上での本質的視座を提供する。タレブによれば、「ブラックスワン」とは、①予測不可能であり、②極めて大きな影響をもたらし、③事後的にのみ説明可能となる現象である。この三要素を満たす出来事こそが歴史の真の動因であり、人間の認識論的限界を暴露する契機となる。技術的特異点は、まさにこの「ブラックスワン」の究極形態として理解されるべきである。予測不可能性の極北に位置する特異点は、単なる技術的閾値を超えて、存在論的断絶をもたらす可能性を秘めている。タレブの洞察を敷衍すれば、我々は「知らないことを知らない」という二重の無知の状態に置かれているのであり、特異点はその無知の淵から突如として現れる「超ブラックスワン」となる可能性がある。
タレブが指摘するように、近代的思考の根本的欠陥は極端な出来事を無視し、ガウス分布(正規分布)に基づく予測可能性の神話に囚われていることにある。特異点についての議論もまた、この罠に陥りやすい。特異点を2045年などと年号で特定し、線形的な予測の範囲内に封じ込めようとする試みは、タレブの批判する「プラトン的世界観」の典型である。「プラトン的世界観」とは、混沌とした現実を整然とした抽象モデルに還元しようとする知的傾向である。しかし、ブラックスワンとしての特異点は、このような還元主義的アプローチを根本から覆す。なぜなら、それは予測の対象ではなく、むしろ予測という概念そのものの崩壊を告げる「メタ・ブラックスワン」だからである。
タレブがブラックスワンの例として金融危機や政治的激変を挙げたように、技術的特異点もまた、既存の社会的・経済的・認識論的パラダイムを一挙に破壊する潜在力を持つ。しかし、特異点の場合、その影響はより根源的であり、人間性の定義そのものにまで及ぶ可能性がある。タレブの言う「極端なスタン」(極端な出来事が支配する世界)は、特異点以降の世界の常態となるだろう。この状況下では、従来の因果関係や確率論的思考は無効化され、「反脆弱性」(antifragility)という概念がより重要となる。タレブが「反脆弱性」で示したのは、単なる堅牢さや回復力ではなく、混沌やランダム性から積極的に恩恵を受ける性質である。特異点時代における人間の生存戦略は、このような「反脆弱性」の獲得に向けられるべきだろう。
タレブが近代的リスク管理の欺瞞性を暴いたように、特異点に対する従来の「管理」「制御」「予防」といった概念も、根本的に再考されねばならない。特に人工知能の「制御問題」に関する議論は、タレブ的観点からすれば致命的に不十分である。なぜなら、それは予測不可能性の真の深淵を無視し、問題を技術的パラメータの調整に矮小化しているからだ。タレブが「ブラックスワン」で採用した懐疑主義的アプローチに従えば、我々はむしろ「知らないことを知っている」という「消極的認識」(negative knowledge)から出発すべきである。この立場からは、特異点に対する「準備」は、特定のシナリオへの対応ではなく、あらゆるシナリオの転覆に備える思考的柔軟性の獲得として再定義される。
タレブが「中庸の欺瞞」として批判したように、特異点に関する議論もまた、「楽観」と「悲観」という二項対立に囚われがちである。この二分法は、ブラックスワンの本質的な予測不可能性を見逃している。特異点は「良い」結果をもたらすかもしれないし、「悪い」結果をもたらすかもしれないが、その二元論自体が無意味になる可能性すらある。タレブの「極端なスタン」の哲学に従えば、中間的なシナリオよりも極端なシナリオこそが、我々の思考実験の中心に置かれるべきである。それは単なる破滅論でも楽観論でもなく、極端な可能性と向き合う知的誠実さの表れである。
タレブの言う「セレンディピティ」(偶然の幸運な発見)の概念は、特異点への対応においても重要な視座を提供する。特異点はブラックスワンであるがゆえに、その出現とその後の展開は、計画や予測ではなく、即興的対応能力と創造的適応力に依存するだろう。この意味で、特異点時代における知性とは、従来の固定的知識や演繹的推論能力ではなく、タレブが「実践的知恵」と呼ぶ種類の知性、すなわち不確実性の中での行動指針を見出す能力に近い。それはまた、古代ギリシアの「メティス」(cunning intelligence、狡知)の現代的復権とも言えるだろう。メティスとは、オデュッセウスのように予測不可能な状況下で即興的に対応する知性の形態である。
タレブが「皮膚を賭けること」(skin in the game)として強調したのは、知識と行動、理論と実践の不可分性である。特異点に関する議論においても、単なる理論的思弁ではなく、実存的関与が求められる。我々は特異点というブラックスワンを前にして、タレブの言う「実用的な懐疑主義」(practical skepticism)の態度を取るべきだろう。それは絶対的な不確実性の認識に基づきつつも、その認識が麻痺ではなく行動へと導く懐疑主義である。
最終的に、タレブのブラックスワン理論から特異点を考察するとき、我々は「知の限界」と「無知の可能性」という二重の自覚へと導かれる。特異点は、未来のある時点に訪れる出来事としてではなく、人間の認識論的限界を露呈させる思考実験として理解されるべきである。それは「予測」の対象ではなく、予測という概念そのものの限界を示す「メタ予測」なのだ。タレブが「ブラックスワン」で試みたのは、予測不可能性の哲学を通じて確実性の幻想を解体することだった。同様に、特異点というブラックスワンの思考実験は、人間中心主義的な未来像の解体と、より開かれた存在論的可能性の探求へと我々を誘う。
タレブの「極端なスタン」の哲学に従えば、特異点という「超ブラックスワン」の到来に対して、我々は「強靭な脆弱性」(robust vulnerability)という逆説的な姿勢を培うべきかもしれない。それは特異点がもたらす根本的不確実性を受け入れつつも、その不確実性の中でなお思考し、行動し、創造する能力である。タレブが言うように、真の知恵とは「知らないことを知っている」という認識から生まれる。特異点という究極のブラックスワンを前にした時、この認識こそが我々の出発点となるべきである。