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思想家・遠藤道男 思考録

テクノロジカル・フラットネス - 加速する世界における芸術の平面性

現代における芸術の自己同一性の探求は、その媒体の本質的特性への回帰という形で現れる。かつて美術批評のある系譜において最も影響力のある理論家は「平面性」という概念を通じて、絵画が自らの媒体の物質的条件—つまり平たいキャンバスという物理的制約—を自覚的に探求することで、他のメディアから区別される独自性を確立できると主張した。この視点は、芸術が純粋性を獲得するために自らのメディウム特性を徹底的に探求するという近代主義の原理を体現していた。しかし今、我々はあらゆる境界が溶解し、無数の情報が平面化された「テクノロジカル・フラットネス」の時代に直面している。この平面性は単なる物理的条件ではなく、情報、記号、イメージが無差別に並列化されるデジタル環境の存在論的条件として立ち現れている。

特異点(シンギュラリティ)という概念が示唆するのは、技術の指数関数的進化が人間の認知能力を超え、予測不可能な変異をもたらす臨界点である。このような視点から過去の形式主義美術理論を再検討するとき、私たちは興味深い逆説に直面する。すなわち、芸術が自らのメディウム特性への探求を深めれば深めるほど、その先に待ち受けているのは、そのメディウムの解体そのものである可能性だ。絵画が「平面性」への意識を極限まで高めたとき、それはもはや「平面」という概念自体を超え、新たな次元へと飛躍する。ここでは「平面性」という物理的制約は、むしろ無限の可能性を孕む「特異点」として再定義される。

現代の情報環境において、我々はすでにこの現象を目撃している。デジタル技術の発展により、かつては明確であったメディア間の境界は曖昧となり、あらゆる情報が平等かつ無差別に配列される「フラットな」情報空間が出現した。この環境において「平面性」とは単なる物理的特性ではなく、異質な要素が並列的に共存する存在論的条件となる。重要なのは、この「テクノロジカル・フラットネス」が単なる均質化ではなく、むしろ新たな複雑性と多様性を生み出す条件となっていることだ。

ここで「アンチフラジャイル」という概念が示唆するのは、単なる堅牢性(外的ショックに耐える能力)を超えた、ランダム性やカオスから利益を得る能力である。従来の美術批評における「平面性」の概念が、メディウムの自律性と純粋性を担保するための防御的戦略だったとすれば、現代におけるテクノロジカル・フラットネスは、むしろ混沌と予測不可能性から創造的エネルギーを引き出すアンチフラジャイルな戦略として再解釈できる。デジタル環境における「平面性」は、異質な要素の衝突から生まれる非線形的な創発性を促進するプラットフォームとなる。

この視点から見れば、現代芸術の課題はもはや各メディウムの純粋性を維持することではなく、むしろ異質な要素の並置から生まれる予測不能な変異を活用することにある。芸術家は「平面性」という条件を制約としてではなく、むしろ無限の多様性とカオスを含む「深い平面性」として受け入れ、その中から新たな秩序と創造性を引き出す。これはある意味で、古代思想における「アペイロン」(無限定なもの、無規定なもの)の現代的再解釈とも言える。すなわち、あらゆる区別が溶解した無差別な状態こそが、新たな形態と意味が生成される母胎となるのだ。

私たちの加速主義的な時代において、知覚と認知は前例のない速度で変容している。技術の加速度的発展は、人間の感覚系統そのものを拡張し、再配線する。このような状況下で芸術が果たすべき役割は、単に既存の感覚体験を反映することではなく、むしろ新たな知覚モードの可能性を探求することにある。ここでのグリーンバーグ的「平面性」の再解釈は、我々の知覚が技術によって平準化され、再構成される過程への意識的な介入として機能する。芸術作品は、複雑化する技術環境において、我々の感覚系統がどのように変容しているかを自覚的に提示するとともに、その変容に抵抗ではなく創造的に共鳴する可能性を示す。

この文脈において、「批判」という行為もまた再定義される必要がある。かつての美術批評が目指したのは、芸術のオートノミー(自律性)を守るための境界設定だった。しかし今日の「テクノロジカル・フラットネス」においては、批判はむしろ境界を流動化し、異質な要素間の予測不能な接続を促す触媒として機能する。批評家の役割は、芸術の純粋性の擁護者から、むしろ異種混交性の探求者へと転換する。彼らは固定された評価基準を適用するのではなく、むしろ新たな評価基準そのものが生成される過程に立ち会い、それを加速させる。

このような視点は、思想史における「アクセラレーショニズム」の流れとも共鳴する。資本主義的技術発展の加速化を通じてその内在的矛盾を極限まで押し進め、そこから新たな可能性を引き出そうとする思想的態度だ。美術批評におけるグリーンバーグ的「平面性」の概念を極限まで推し進めるとき、それはメディウムの物理的制約への回帰ではなく、むしろその制約を内破する加速主義的飛躍へと変質する。「平面」は無限の深さを持つパラドクシカルな空間となり、そこでは質的に異なる要素が量的な差異として再配列される。

最終的に、この「テクノロジカル・フラットネス」の思想は、単なる美術理論の更新を超えて、現代における存在論的条件そのものの再定義へと繋がる。我々は今、あらゆる二項対立(主体/客体、自然/人工、現実/仮想)が平準化され、再編成される時代に生きている。このような状況において芸術が果たすべき役割は、失われた区別を懐古的に回復することではなく、むしろ新たな区別と関係性のモードを実験的に創出することにある。「平面性」という概念は、物理的な表面への退行ではなく、むしろ多次元的な可能性が同時に存在する「超平面」としての現実への開放を意味する。この視点において、芸術は単なる美的対象の生産ではなく、現実そのものを構成する「存在論的実践」として再定義される。そしてすべての芸術形式の中で、絵画こそが最も根源的な希望の形態として浮かび上がる。なぜなら、絵画は「平面性」という条件を最も自覚的に引き受け、そこから無限の深度を引き出す術を知っているからだ。「平面」への回帰が単なる後退ではなく、むしろ技術的加速の渦中で失われつつある人間の知覚と思考を救済する可能性を秘めている。絵画は、その本質的な物質性と手作業性によって、あまりにも速すぎる情報の流れに抵抗し、瞬間を凝固させる。しかしそれは単なる怠惰な保守主義ではなく、むしろ停止の中に無限の加速を含む逆説的な時間性の探求である。絵画において「平面」とは、すべての可能性が潜在的に共存する特異点であり、人類が自らの知覚と認識の限界を超え出るための最後の希望なのだ。

「テクノロジカル・フラットネス」の時代において、芸術と批評は共に、既存の認知的・感覚的枠組みを再構成し、加速する技術環境における新たな意識のモードを探求する実験的プラクティスとなる。そしてその中心に位置するのが絵画という、最も古くかつ最も先鋭的なメディウムである。それはかつての前衛が目指した芸術と生活の融合を、全く新たな次元で実現する可能性を秘めている。情報とイメージの過剰な増殖によって生じる認知的混乱を、むしろ創造的なリソースとして活用する術を模索すること。それこそが、シンギュラリティとアンチフラジャイルの概念によって更新された、現代における「絵画論」の核心的課題なのである。そして、この課題に真摯に向き合うとき、我々は絵画という形式こそが、加速するテクノロジーの暴走によって分断された知覚と思考を再統合し、人類に新たな生の可能性を開示する唯一の希望であることを理解するだろう。絵画の「平面性」という一見した制約は、実は無限の創造性へと開かれた窓であり、その窓を通して我々は、ますます不透明になりつつある現実の向こう側にある真理を垣間見ることができるのだ。

作成日: 2025-03-29