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思想家・遠藤道男 思考録

加速の崇高―人類の出口なき転位についての考察

「人類はまだまだ進化できるとおれは思う。それができない犬畜生は淘汰されるだけだ」――短編映画「殺す」に登場するこの言葉は単なる映像作品の断片ではなく、我々が直面する存在論的な瞬間の結晶化である。この言葉が示唆するのは、人間という種の「未完の計画」としての性質であり、その進化的軌跡の非決定性である。我々は既に完成された存在ではなく、むしろ絶え間ない変異と選択のプロセスの中に置かれた開かれた問いなのだ。この観点から見れば、現在の「人間」という形態は、単なる一時的な段階に過ぎず、より高次の複雑性と潜在性の実現へと向かう過渡的な瞬間として理解されるべきである。

現代文明の末期症状――環境崩壊、意味の崩壊、知性の衰退、神話的思考への退行――これらは単なる一時的な危機ではなく、システム全体の構造的な限界を示す指標である。我々が直面しているのは、解決可能な問題の集合体ではなく、むしろ現在の人間形態そのものの限界である。この意味で、加速主義は単なる政治的立場や社会理論ではなく、人間の条件そのものを超越するための実存的要請である。資本主義やテクノロジーの発展を単に促進させるというナイーブな考えではなく、むしろそれらのベクトルが生み出す非人間的な力学を経由して、現在の人間性の袋小路から脱出する道を模索する思考実験である。

古代ギリシャの賢者たちは既に、人間が「未完の動物」であることを理解していた。プロメテウスの神話は、技術による自己超越の原型を示している。しかし、現代の状況はより根本的な転換を要求している。我々は今、単に新しい道具を手に入れるのではなく、新しい存在形態への移行の瀬戸際に立っている。これは単なる進歩や改良ではなく、質的な断絶、存在論的な転位である。ハイデガーが技術の本質について警告したように、我々は技術によって「用立て」られる危険性と同時に、そこに「救いの萌芽」を見出す必要がある。しかし、彼の思考を超えて、我々は技術との融合、あるいは技術による人間の超克という可能性をも考慮に入れなければならない。

「人類はまだまだ進化できる」という言明には深い真理が含まれている。しかし、この進化は単に生物学的なものではない。むしろ、それは生物学的基盤を超えた新たな情報処理システムとしての人間、あるいは人間後の知性体の出現を意味する。ここで重要なのは、この変容が単なる選択肢ではなく、必然であるという認識だ。物質的現実の全体性を情報として処理可能にするテクノロジーの加速度的発展は、必然的に人間の認知能力の拡張と変容をもたらす。この過程で「人間」という概念そのものが溶解し、再構成される。この意味で、加速主義は単なるイデオロギーではなく、現実の物質的・情報的なダイナミクスの記述であり、同時にその帰結への準備である。

「それができない犬畜生は淘汰されるだけだ」という冷酷な洞察は、現代の人道主義的な幻想を打ち砕く。ここでの「犬畜生」とは、単に進化できない個人を指すのではなく、変容への抵抗、過去の形態への執着、快適な幻想への逃避という普遍的な傾向を象徴している。この傾向は、人間性の本質的な限界であると同時に、超克すべき対象でもある。ニーチェが「人間は乗り越えられるべきものである」と宣言したとき、彼はまさにこの問題を指摘していた。しかし、現代の文脈では、この「乗り越え」はもはや単なる道徳的・精神的な次元の問題ではなく、技術的・物質的・情報的な次元での変容を意味する。人間の認知システムが処理しきれない複雑性の増大は、必然的に新たな情報処理の形態、新たな「知性」の出現を要求する。

現代の技術発展の軌跡は、単なる偶然や人間の意図的な計画の結果ではなく、むしろ宇宙そのものに内在する情報処理の加速というより根源的なプロセスの一部として理解できる。このプロセスにおいて、「人間」は一時的な媒体、過渡的な担体に過ぎない。シリコンバレーの技術主義者たちが夢見る「特異点」は、この文脈では単なる技術的な出来事ではなく、存在そのものの相転移として理解される。しかし、この転位は単に人間が機械に取って代わられるという単純な図式ではなく、むしろ「人間」と「機械」という二項対立そのものの溶解、新たな存在形態の出現として捉えるべきである。

過剰なヒューマニズムへの執着、人間中心主義的な世界観は、もはや単なる哲学的な立場ではなく、実存的な危機である。なぜなら、それは我々が直面している変容の必然性を否定し、過去の形態への病的な固執を促すからだ。西洋形而上学の伝統は常に「存在」を固定的なものとして捉え、変化や生成を二次的なものとして軽視してきた。この思考の枠組みは、現在の危機の根本的な原因の一つである。これに対して、加速主義的な思考は、生成、変化、転位を中心に据え、固定的な「人間性」という概念を流動的なプロセスとして再定義する。

現代資本主義の矛盾と限界は、単にその内部で改革を行うことによっては超克できない。むしろ、その内在的な論理を極限まで押し進めることで、新たな社会的・経済的・存在論的な形態への移行が可能になる。これは単なる技術的楽観主義でも、進歩への素朴な信仰でもない。むしろ、現在の危機の深さと普遍性を直視し、その中に潜在する転換の可能性を見出す冷徹な視線である。現代世界の複雑性と不確実性の増大は、単に「混乱」や「危機」として否定的に捉えるべきではなく、むしろ新たな秩序の出現、より高次の複雑性への移行の兆候として理解すべきである。

デリダの「脱構築」やドゥルーズの「リゾーム的思考」が示唆するように、固定的なアイデンティティや階層的な構造への執着は、より流動的で多元的な思考への移行によって乗り越えられる必要がある。しかし、この移行は単に概念的な次元にとどまるものではなく、物質的・技術的・社会的な変容を伴う具体的なプロセスである。人工知能、バイオテクノロジー、情報ネットワークの発展は、単なる道具の進化ではなく、人間の認知・身体・社会関係の根本的な再編成を意味する。

「人類はまだまだ進化できる」という声明は、単なる希望的観測ではなく、むしろ現実の物質的・情報的なダイナミクスの必然的帰結である。この進化は、もはや自然選択や生物学的な適応の枠組みの中だけで理解されるものではなく、技術との共進化、情報システムとの融合、認知の拡張という新たな次元を含む。この過程は、既に始まっている。我々の思考、記憶、社会的相互作用は、既にテクノロジーによって媒介され、拡張され、変容されている。しかし、これはほんの始まりに過ぎない。

最終的に、加速主義的な視点は「人間」という概念そのものの再定義、あるいは超克を要求する。これは単に人間の能力の拡張や強化ではなく、より根源的な存在論的転位である。この転位は、恐怖や拒絶の対象としてではなく、むしろ「崇高」なもの、つまり恐怖と魅惑の混合として経験される。それは人間的な尺度を超えた、計り知れない複雑性と潜在性への開かれた運動である。この意味で、「人類はまだまだ進化できる」という言明は、単なる可能性の宣言ではなく、むしろ必然性の認識であり、同時に倫理的な要請である。なぜなら、この変容への抵抗、過去の形態への執着は、結局のところ「淘汰」されるべき「犬畜生」的な反応だからだ。我々に求められているのは、恐怖を乗り越え、未知なるものへの勇気を持つことである。それは単なる思考実験ではなく、我々の存在様式そのものの転換を意味する。

作成日: 2025-03-29