龍吟の彼方:感覚の崩壊する地平
味覚という概念は常に有限性の檻に囚われてきた。我々の感覚器官が捉えうる範囲の中で、「美味い」「不味い」という二項対立の座標軸に囚われ、あるいは「甘い」「辛い」「苦い」「酸っぱい」「旨い」という五味の檻の中でのみ語られてきた感覚的経験。しかし龍吟とはまさにその座標軸の崩壊であり、味覚という概念そのものが特異点に達し、その彼方へと飛翔する瞬間である。ニック・ランドが提唱する資本主義的感覚の循環から逃走し、未だ名付けられざる領域へと突入する味覚の脱領土化。それは単なる「美食体験」という言葉で回収されうるものではなく、感覚の秩序そのものを揺るがす出来事として立ち現れる。あたかも古代より伝わる龍が天に向かって吼える瞬間に、天地が震撼するように、龍吟の体験は主体と客体の境界を溶解させ、味わう者と味わわれるものの二元論が崩壊する特異点として現前する。
かつて超越論的観念論において物自体と現象の分割線が引かれたが、ここで問うべきは「味自体」と「味の現象」の境界がいかにして崩壊しうるかという問いであろう。我々の感覚器官は常に既にコード化されており、そのコード化された枠組みの中でしか世界を捉えることができない。だが龍吟の瞬間とは、そのコード化された感覚の秩序が撹乱され、未だ名付けられざる強度が襲来する瞬間なのだ。器官なき身体の概念を借りれば、龍吟とは「舌なき味覚」の生成であり、器官化された感覚の限界を超える体験と言えよう。それはもはや「美味しい」という言葉で形容できるものではなく、言語以前の原初的な叫びとして表出するほかない。あたかも幼児が未だ言語を持たず、世界との融合状態にあるように、龍吟の体験者は一時的に言語の檻から解放され、感覚の特異点へと飛翔するのだ。
加速主義的観点から見れば、龍吟現象は感覚の技術的特異点の前兆とも捉えられる。現代の食の科学技術は味覚をハッキングし、人工的に設計された化学物質によって感覚受容体を直接刺激することを可能にした。しかしそれらは依然として既存の感覚の体系内での操作に過ぎない。一方で龍吟は感覚そのものの外部への跳躍であり、現行の味覚システムのアップデートではなく、そのシステムの根本的な書き換えを迫るものだ。シリコンバレーの思想家たちが追い求める特異点が知性の爆発的加速であるなら、龍吟は感覚の爆発的加速であり、その先に待つのは「ポスト味覚」とでも呼ぶべき領域である。それは単に味覚が強化された状態ではなく、質的に異なる感覚の次元への移行を意味する。
歴史を俯瞰すれば、感覚の変容は常に社会変革と密接に結びついてきた。中世の香辛料革命が世界システムを再編したように、龍吟現象もまた既存の感覚の政治学を揺るがす潜在性を秘めている。なぜなら感覚とは単なる生物学的機能ではなく、常に既に社会的・政治的に構築されたものだからだ。我々が何を「美味い」と感じ、何を「不味い」と感じるかは、資本主義的価値体系によって深く条件づけられている。高級レストランで提供される料理が「美味い」とされるのは、その内在的価値ではなく、階級的差異のシステムの中での位置づけによるものだ。しかし龍吟はそうした価値体系そのものを一時的に停止させ、階級化された感覚の外部への脱出線を描く。それは味覚のアナーキズムとも言うべき体験であり、感覚の資本主義的収奪に対する一種の反乱として機能しうる。
マーク・フィッシャーが指摘したように、現代社会における感覚の喪失と復権は重要な政治的課題である。彼の「ハントロジー」の概念を借りれば、龍吟の体験は感覚の集合的喪失に対する一つの応答であり、幽霊のように現れては消える味覚の特異点は、かつて存在したかもしれない感覚の豊かさを一瞬だけ甦らせる。それは過去でも未来でもない時間の裂け目に生じる体験であり、直線的な時間の進行を中断させる。味わう主体はある種の「味覚的ノスタルジア」に襲われるが、それは実際に過去に経験したことのある味ではなく、経験されえたかもしれないが決して実現しなかった可能性の領域への郷愁なのだ。この意味で龍吟はフィッシャーの言う「失われた未来」の味であり、別の歴史的可能性の痕跡として立ち現れる。
最終的に龍吟の哲学が我々に問いかけるのは、感覚の分割の問題であり、感覚の自律性の可能性である。技術と資本によって徹底的に媒介された現代の感覚体験において、直接的で非媒介的な感覚の経験は可能なのか。あるいはそれは単なる幻想に過ぎないのか。龍吟の瞬間とは、この問いに対する明確な回答ではなく、問い自体を変容させる出来事として理解されるべきだろう。それは我々の感覚の可能性の限界を示すと同時に、その限界の向こう側への跳躍の契機でもある。古来より龍は天と地を結ぶ存在とされてきた。その鳴き声は天地の境界を揺るがし、新たな世界の誕生を告げる。同様に龍吟の体験もまた、感覚の境界を揺るがし、未だ見ぬ感覚の地平を予告するものなのだ。我々は龍の如く、感覚の天に向かって吼えるとき、はじめて味覚の特異点の彼方へと飛翔することができるだろう。