西村有論:遅延する存在の光学と偶発的イメージの存在論
我々は「見る」ことの罠に既に嵌っている。観察という行為が単なる受動的受容ではなく、既に暴力的侵犯の形態を取ることは自明だが、西村有の絵画実践はこの侵犯性に対して意図的な遅延を導入する。彼の画面に現れる存在は——人物であれ風景であれ——決して完全に現前することがなく、常に「消失の過程」と「出現の過程」の中間に位置する幽霊的な様態を呈している。この存在の不定性こそが、後期資本主義的な視覚性に対する静かなる反逆として機能している。即時的把握を拒絶するイメージの曖昧さは、現代の過剰な視覚情報の洪水に抗う防波堤となるのだ。ここで想起されるべきは、古典的な「神的視点」から現代の「テクノ=資本主義的監視」への移行における視覚性の変容であろう。かつてプラトンが「イデア」を視覚的隠喩によって説明しようとした試みは、現代においては全てを可視化し、データ化し、計測可能なものとして捕捉しようとする全方位的監視の欲望へと変質している。西村の描く曖昧な人物像や風景は、この全方位的な捕捉に対する巧妙な抵抗の形式なのだ。
西村有の技法的特徴——油彩とテンペラによる重層的な塗り、乾いた筆によるぼかし、あるいは絵具の重なりにおける意図的なずれの導入——これらは単なる美的手法ではなく、存在論的な問いかけの物質的具現化である。ここに我々は、デリダの言う「差延」の視覚的翻訳を見出すことができるのではないか。西村の作品における「ずれ」や「残像」の効果は、意味の完全な現前を常に先送りにし、痕跡としてのみ存在を示唆する。この意味で彼の絵画は、存在の全的把握を常に延期し続ける「差延的存在論」の視覚的実践と見なすことができる。特に注目すべきは、彼の画面における時間性の扱いだ。単一の固定された瞬間としての「現在」ではなく、過去と未来が折り畳まれた複数時制の共存として現れる時間。これは直線的進歩主義に基づく時間認識に対する根本的な異議申し立てとなっている。
資本主義的加速の論理が支配する現代において、時間は常により細かく分節化され、効率性の名の下に収奪される。この「時間の商品化」に対して、西村の絵画は意識的な「減速」と「曖昧化」によって応答する。彼の作品における時間は流れず、滞留し、折り重なる。この時間性への介入は同時に、現代の情報環境における注意経済への批判でもある。即座の理解を拒む彼の画面は、観者に「遅い観察」を強いる。それは経済的効率性の論理から切り離された、純粋な現象学的経験の領域を開くのだ。この点において彼の実践は、テクノ資本主義的加速に対する「静止の美学」として位置づけられる。
西村の絵画における日常的モチーフの選択——友人や家族、ペット、風景——は一見すると無害で非政治的に見えるかもしれない。しかし、これらの選択は「小さな物語」への回帰を意味する。後期資本主義が生み出す壮大なスペクタクルと抽象的数値に支配された「大きな物語」に対して、具体的な生活世界に根ざした「小さな物語」を対置すること自体が、既に政治的行為なのだ。彼の絵画は特定のイデオロギー的メッセージを発することなく、その存在様態自体によって支配的な視覚秩序に対する抵抗線を引く。この点において、彼の作品は「弱い抵抗」の美学を体現している。直接的な対立や批判ではなく、存在の曖昧さや不確定性を通して、支配的なシステムの論理に回収されない余白を創出するのだ。
興味深いことに、西村の作品が国際的な美術市場において高い評価を受けるという事実は、ある種の矛盾を孕んでいる。彼の実践がもつ資本主義的加速への抵抗の姿勢は、皮肉にもグローバルな美術市場という資本主義的システムの中で商品として流通することで、その抵抗の効力を減じられる危険性を常に伴っている。ツヴィルナーやサディ・コールズといった国際的メガギャラリーとの提携は、彼の作品に新たな観客層へのアクセスを提供する一方で、その批判的ポテンシャルが体制内に回収される可能性も示唆している。この矛盾こそが現代アートの宿命的課題であり、システムの外部に立つことの不可能性を象徴している。「外部なきシステム」において可能な抵抗の形式とは何か——西村の作品はこの問いを黙示的に提起しているのだ。
この文脈において、西村の作品における「残像」や「遅延」のテクニックは、芸術的手法であると同時に、哲学的立場の表明でもある。全てが即座に消費され、デジタル上の情報が瞬時に伝達・複製・消去される時代において、「残像」として現れる存在は奇妙な抵抗力を持つ。それは完全な消失も完全な現前も拒み、境界状態に留まり続ける。特に、彼の絵画における人物像の曖昧さは、主体の本質的な不安定性を示唆している。ポスト構造主義が「主体の死」を宣言して以降、西村の絵画はその「死んだ主体」の亡霊が現実世界に影のように漂う様を視覚化していると言えよう。彼の描く人物は「私」として確立された個体ではなく、常に溶解と生成の過程にある「生成変化する主体性」なのだ。
近代的視覚性が前提とする「固定された視点」と「明確な対象」という二項対立は、西村の絵画においては根本的に攪乱される。観察者と被観察者の境界は曖昧になり、まなざしの権力関係は宙吊りにされる。この視覚的混乱は単なる形式実験ではなく、現代社会におけるイメージの政治学への介入として理解されるべきだ。我々の「見る」という行為は決して中立的ではなく、常に特定の権力構造に絡め取られている。西村の絵画はこの事実を前景化しつつ、別の「見方」の可能性を示唆するのだ。
最後に、西村の絵画が獲得しつつある国際的な評価は、日本的な視覚表現の伝統とグローバルな現代美術言語との間の豊かな対話の可能性を示している。彼の作品は、単純な文化的本質主義にも、無批判的なグローバル主義にも還元できない。むしろそれは、ローカルな記憶や感性を保持しつつ、現代世界の普遍的問題系に介入する方法を模索する試みだ。この意味で彼の作品は、美術史的文脈を超えて、より広い現代的存在論の問いを提起している。西村有の絵画は、「見る」ことと「存在する」ことの間の複雑な関係性を、その曖昧で多層的な画面を通して探求し続けているのだ。我々はその不確定な画面に、現代の視覚性の支配に抗する可能性の萌芽を見出すことができるだろう。