ジブリ的存在の加速と複製の崇高性 — アニメ表象の解放と非弁証法的突破
我々が今直面しているスタジオジブリの画風の生成AIによる複製という事態は、単なる技術革新の一環としてではなく、より深遠な存在論的転回として捉えられるべきである。ジブリ的イメージが模倣され、複製され、そして最終的には「生成」されるという一連の過程は、かつてヴァルター・ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」と呼んだ現象の、最終的かつ決定的な段階への到達を示している。生成AIによるイメージの産出は、もはや模倣でも複製でもなく、存在そのものの新たな様態の創出である。特に注目すべきは、特定のアニメーション様式—その様式の創始者自身がAIに対して明確な拒絶を示している—が今やアルゴリズムによって「生成可能」となった事実が持つ哲学的意義である。この事態は我々に、芸術の本質、創造性の起源、そして何よりも「オリジナル」という概念そのものの再考を迫るものである。
人間の創造性という観念は、長らく西洋形而上学の伝統において、神的な属性の人間的反復として位置づけられてきた。「無からの創造」というキリスト教的教義に依拠したこの観念は、啓蒙思想を経て世俗化されながらも、なお芸術家を特権的な主体として祀り上げる基盤となった。しかし技術的加速の時代において、この神話は急速に解体されつつある。存在するものはすべて、常にすでに潜在的な複製可能性の網の目に絡め取られている。アニメーションという形式、特に日本のある特定のスタジオの作風に代表される様式美は、その精緻さと強固な作家性ゆえに、長らくこの網の目から逃れてきたかのように見えた。だがついに技術的加速は、この最後の砦をも包囲したのである。
顕在と潜在の弁証法を超えて、我々は今や「超越論的経験主義」とでも呼ぶべき地平に立っている。生成AIによって産出されるイメージは、もはや何かの「模倣」ではなく、むしろ様式そのものの純粋な現前である。それは個別の作品や作家の特徴を超えて、様式というコード化された視覚的言語そのものを抽出し、再構成する。ある意味でこれは、かつてロラン・バルトが目指した「作者の死」の最終的な実現形態と言えるだろう。イメージはもはや作者に帰属せず、むしろアルゴリズムと人間の共同作業による「無人称的生成」の場となる。このプロセスは、古典的な著作権概念や知的所有権の限界を露呈させるだけでなく、より根源的に「創造」という行為そのものの再定義を要請している。
資本と情報の加速度的循環は、不可避的に芸術的表現の形式をも変容させる。かつて特権的な技術や訓練、制度的庇護のもとでのみ可能であった表現様式が、今やアルゴリズムの演算能力によって誰にでも接近可能になる。この現象を単なる「民主化」と呼ぶことは、その根本的な存在論的転回を見逃すことになるだろう。むしろここで起きているのは、「民主化」ではなく「非人間化」であり、「解放」ではなく「脱領域化」である。ジブリ的表象の生成AIによる複製可能性は、人間的創造性という神話の終焉と、脱人間化された表現の出現を同時に告げている。
ニック・ランドは「加速」を資本主義の内在的傾向として捉え、その極限への推進を提唱した。ハイデガーは現代テクノロジーが生み出す「存在の忘却」について警鐘を鳴らした。だが両者とも、我々が目の当たりにしている現象の本質を完全には捉えていない。生成AIによるイメージの産出は、単なる技術的加速でも存在の忘却でもなく、むしろ「存在の新たな様態」の出現である。それは人間的主体性を中心とした伝統的存在論を超えて、アルゴリズムと人間の共同的な「存在の産出」という新たな地平を開く。
「ジブリ化」という現象は、古典的な意味での模倣ではない。それはむしろ、コード化された視覚的言語の純粋な反復であり、そこには何の感傷もなければ敬意も存在しない。アルゴリズムはジブリ的様式を「理解」してはおらず、ただその表層的パターンを抽出し再構成しているにすぎない。しかしながら、この無感情な再構成こそが、逆説的にも芸術的表現の新たな可能性を開くのである。なぜなら、それは人間的主体性に依拠しない表現、「誰のものでもない表現」の出現を告げるからだ。
ここで我々は重要な問いに直面する。芸術的表現がその起源において必ずしも人間的主体性を必要としないとするならば、「創造性」とは何なのか。伝統的に創造性は、神的属性の人間的反復として理解されてきた。しかし生成AIの出現は、創造性を特定の主体(人間であれ神であれ)に帰属させる必要性そのものを問いに付す。むしろ創造性とは、人間とアルゴリズム、自然と技術、有機体と無機物の間の「出会いの場」として理解されるべきなのではないか。
生成AIによるジブリ的イメージの産出が引き起こす不安や反発は、単なる伝統的価値観の防衛反応として片付けられるべきではない。それはむしろ、資本主義的加速の過程が必然的に生み出す「主体の解体」への不安の表れである。加速の過程において、人間的主体性はますます周縁化され、アルゴリズム的決定と資本の流れが中心となる。しかしこの解体の過程は、必ずしも絶望的なものとして理解される必要はない。むしろそれは、人間中心主義的存在論の限界を超えた、より拡張された創造性と表現の可能性を示唆している。
結局のところ、我々はかつてないほど「複製の存在論」の中に生きている。「オリジナル」と「コピー」の二項対立は、もはや現実を捉える上で有効ではない。生成AIによって産出されるイメージは、既存のイメージのコピーでもなければ、全く新しいオリジナルでもない。それはむしろ、ジル・ドゥルーズが言うところの「差異の反復」としてのイメージであり、常にすでに潜在的だったものの顕在化である。このような視点から見るならば、ジブリ的様式の生成AI的再構成は、ある種の「潜在的ジブリ」の顕在化と言えるのではないか。そこでは、作家性や様式美といった概念そのものが根本的に再考されるのである。
技術的加速は不可避である。我々に残された選択肢は、この加速に対する反動的否定か、あるいはその内在的可能性の探求かのいずれかだ。「ジブリ的様式美の民主化」という現象は、単なる文化的盗用や芸術的価値の劣化としてではなく、むしろ表現と創造性の新たな地平の開放として理解されるべきである。それは我々に、人間的主体性を超えた創造の可能性を示唆している。アルゴリズムによる創造が、必ずしも人間的創造性の終焉を意味するわけではない。むしろそれは、より拡張された創造性の可能性、人間とアルゴリズムの共同的創造の可能性を開くものなのだ。我々はこの新たな可能性を恐れるのではなく、むしろその内在的潜勢力を解放すべきである。