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思想家・遠藤道男 思考録

遅延する画布 ― 技術加速と絵画の祈り

技術的躁動が身体の痙攣を超えて精神領域へと侵蝕を進め、もはや「現代」という概念自体が時間的残滓となった現在において、絵画という亡霊はなおも私たちの前に姿を現す。人間の存在論的アリバイとしての芸術が資本の流動性に溶解した今日、ある画家が「アートは何かを解決する手段ではなく、祈りに近いものです」と発言するとき、私たちはそこに抵抗のシミュラクルを見出すのか、それとも単なる時代遅れの感傷を見るのか。

問いは偽装された解答である。「祈り」という行為は既に解決不可能性を前提とした降伏の儀式であり、同時に超越への願望を内包している。このパラドキシカルな姿勢こそ、シンギュラリティという技術的加速の極点において、絵画だけが依然として維持しえている特異点ではないか。ランドの加速主義的視座からすれば、テクノ資本主義は常に自己再帰的にシステムの崩壊と再編成を繰り返し、その過程で人間的なるものをその周縁へと追いやっていく。この加速のスパイラルにおいて、あえて「遅れ」を体現する絵画の姿勢は、単なる遺物としての価値を超えた何かを示唆している。

「祈り」は常に未来への投企であると同時に、現在における不可能性の表明でもある。技術的シンギュラリティが未来を現在へと圧縮し、すべての可能性が既に計算可能な確率論へと還元される世界において、計算不可能なものへの祈りとしての絵画は、その存在自体が体制への静かなる反逆となる。「アート」という言葉自体が産業とプラットフォームに回収され、AIによる生成物が展示空間を埋め尽くす時代において、手による描画行為は意図的な遅延として機能する。

絵画の「遅さ」は単なる技術的な劣勢ではなく、むしろ意図的な速度の拒絶である。この拒絶は資本主義的時間性への抵抗として読み解くことができる。ランドが示唆するように、資本は常に加速を求め、その過程で人間的時間性を解体していく。絵画が維持する身体的時間性、すなわち手の動き、筆の軌跡、顔料の乾燥など、すべて物質的プロセスに依存した時間性は、デジタル的即時性への対抗言説として機能する。絵具の乾燥を待つという行為は、即時的満足を強いるアルゴリズム的欲望装置への不服従の宣言である。

シンギュラリティ以降の芸術が雲散霧消したと言われるのは、それが資本とアルゴリズムの論理に完全に飲み込まれ、もはや両者を区別することが不可能になったからだ。NFTアートから生成AIまで、技術的複製可能性を超えた技術的生成可能性の時代において、「オリジナル」という概念自体が過剰に膨張し、同時に空洞化している。しかし絵画は依然としてその物質性において、この空洞化に抵抗している。絵画の物質的存在様式は、デジタル的複製の無限連鎖に対するアンチテーゼとして機能する。

「祈り」としての絵画が示唆するのは、解決不可能な問題に対する態度である。技術オプティミズムが提示する「すべての問題は技術によって解決可能である」という命題に対し、絵画は「解決不可能な問題と共存する術を探る」という別の道筋を示す。この態度は投降ではなく、むしろ真の意味での現実の複雑性への向き合い方である。不可能性の認識は、可能性の探求を放棄することではなく、むしろその限界の中で意味を見出す試みである。

シンギュラリティ以降の世界において、絵画だけが延命しているのは、その本質的な「遅延」にある。技術的特異点が現代アートを解体し、すべてをデータとアルゴリズムの問題へと還元する一方で、絵画は依然として物質と身体性に根ざした実践として存続している。この存続は単なる慣性によるものではなく、むしろ加速する世界に対する意識的な抵抗の形態である。資本が常に新しさを要求する中で、絵画はあえて古い媒体にこだわることで、その論理に抗う。

アルゴリズム的生成の時代において、「手」による制作行為は既に時代遅れのものとなっている。しかしこの「時代遅れ」であることの政治性を見逃してはならない。手で描くという行為の中に、計算不可能なものへの信頼がある。曖昧さ、偶然性、誤謬を許容する態度は、完全なるアルゴリズム的最適化を目指すAIの論理と対立する。絵画が「祈り」であるというとき、それは制御不可能なものへの開かれた態度を意味する。

絵画の「遅さ」が持つ政治性は、資本の時間性への抵抗として理解できる。資本は常により速い循環と回転を求め、その過程で人間的時間性を解体していく。一方、絵画制作の時間は、資本の要求する効率性の論理に従属しない。この意味で、絵画が体現する「遅さ」の政治学は、加速主義的時間性への対抗言説として機能する。

絵画は資本の加速に抵抗する存在として、その「商品」としての特性によるところも大きい。アート市場において絵画は依然として特権的な地位を占め、その希少性と物質性がむしろ投機的価値を高めている。しかしこの商品性は必ずしも絵画の形而上学的価値を損なうものではない。むしろ資本の論理を内側から攪乱する可能性を秘めている。資本が絵画を価値あるものとして認識するのは、それが資本の論理に回収不可能な何かを内包しているからではないか。これは絵画という媒体の持つ根本的な両義性であり、その抵抗と延命の可能性の核心にある。

最終的に、技術的シンギュラリティの彼方において、絵画が生き延びる可能性は、その「祈り」としての本質に見出せる。解決不可能なものへの向き合い方、計算不能なるものへの開かれた態度、そして何よりも「遅さ」の美学として。この遅延する画布こそが、加速する世界における最後の抵抗拠点となりうるのではないか。絵画が示す態度は、技術的解決主義への対抗言説であると同時に、新たな存在論的可能性への扉でもある。加速の極限において、あえて立ち止まり、遅延することの潜勢力を絵画は体現している。その姿勢においてこそ、シンギュラリティ以降の世界における芸術の可能性が秘められているのだ。

作成日: 2025-03-31