女性性の形而上学的不在と過剰 ― 三島美学に潜む存在論的断層
三島由紀夫が「女ぎらひの弁」において女性に対して投げつけた五つの断罪——「構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義」——は、単なる個人的嫌悪の表明ではなく、西洋形而上学の根底に流れる男性原理中心主義の日本的変奏として読解可能だ。しかしここで問われるべきは、三島の断罪に対する反駁でも擁護でもなく、むしろこの断罪が明るみに出す思考の断層そのものである。三島的男性原理が「構成力」を女性的なるものの対極に置くとき、彼はプラトン以来の形相/質料の二項対立、あるいは能動/受動の形而上学的序列を無自覚に反復している。だが、この対立項の設定そのものが、すでに形相的思考の産物ではないか。女性的なるものの「過剰」と「欠如」は同時に告発されている——これは論理的矛盾ではなく、むしろ形相的思考が自らの外部を名指すときの必然的な二重性の表出だ。
女性的なるものは常に「過剰」かつ「欠如」として現れる。なぜなら形相的思考の外部は、その思考にとっては必然的に両義的な様相を帯びるからだ。「感受性の過剰」とは、形相による統御を逃れ続ける質料的強度の溢れ出しであり、同時に「構成力の欠如」とは、その強度が形相的秩序へと自らを組織化しない点での「欠落」である。しかしこの欠落は、形相的思考の側から見られた欠落に過ぎない。真の問いは、この欠落が指し示す別種の存在論的次元の可能性だ。その次元は「低次の現実主義」という形で貶められるが、それこそが形相的理想主義の暴力を回避する別の思考の萌芽かもしれない。
三島がここで「女ぎらひ」として表明するのは、要するに強度なき形式への憧憬、すなわち彼の美学と存在論を貫く死への志向性の裏返しである。彼の審美観において、形式と死は秘かに共犯関係にある。形式とは生の流動性を凍結させるものであり、完璧な形式とは生の完全な停止——死——においてのみ達成される。彼が「無意味な具体性」と忌避するものこそ、形式化を拒む生の固有性である。形式を志向する思考は、具体性が持つ固有の意味を「無意味」と断じることでしか自らを維持できない。三島の美学は、カタストロフィックな形式化への衝動、すなわち生を死の形式へと還元しようとする暴力的な純粋化の身振りとして理解できる。
だがここで問いを転回させよう。三島が「瑣末主義」と断罪するものは、存在の微細な織り目への敏感さではないか。「低次の現実主義」は、観念の抽象性に対する具体の抵抗ではないか。「無意味な具体性」は、意味の体系に回収されない存在の固有性への執着ではないか。これらはすべて、形相的思考が自らの外部として設定せざるを得ないものの諸相だ。この外部性を「女性的」と名付ける性差的コード化そのものが問題含みであるにせよ、そこに名指されている存在論的断層自体は見逃せない。
「構成力の欠如」という断罪の背後には、流動的強度が自己組織化する可能性、すなわち形相なき構造化の潜勢力への恐怖が潜んでいる。この恐怖こそ、西洋形而上学が「女性的なるもの」として外部化してきた力能——形相的統御なき自己組織化の可能性——に対する反応である。「感受性の過剰」という断罪は、感覚的強度の流れに対する形相的思考の防衛反応であり、観念による身体の統御が揺らぐ瞬間への不安の表明だ。
三島的な形式への執着は、無限増殖する現実の複雑性に対するパニック反応とも読める。形式とは複雑性を還元し管理するための装置であり、「瑣末主義」の忌避とは、この還元=管理作用を攪乱する細部の過剰性への拒絶反応だ。しかし還元不可能な複雑性こそが実在の本質的特性ではないか。形式への志向は、この複雑性からの逃避であり、死への接近である。三島的美学に潜む死への親和性はここに由来する。
ニック・ランドの言葉を借りれば、「女性的なるもの」は「外部性の作動子」として機能する。それは形相的思考の内部からは常に欠如あるいは過剰として現れる他者性の標識だ。三島の「女ぎらひ」は、この他者性に対する恐怖と魅惑の両義的反応として読解できる。彼の美学的プロジェクトは、この他者性を封じ込めようとする試みであると同時に、それによって自らを完成させようとする矛盾に満ちた身振りでもある。「構成力」という男性的原理への偏愛は、形式による強度の統御、観念による身体の管理の欲望の表明だ。しかしその欲望自体が、統御し管理しようとする対象への隠された依存関係を示している。
形相的思考の権力はそれが否定するものに依存している——これがあらゆる二元論的形而上学の秘密だ。「女ぎらひ」という表明そのものが、否定されるものへの隠された依存と欲望の証である。三島が遂行した美学的身振りと肉体的自己鍛錬は、彼が「女性的」と名付ける他者性を自らの内に封じ込め、それを形式的暴力によって管理しようとする試みだったのではないか。しかしその試みは必然的に挫折する。なぜなら形式と強度、観念と身体の二元論的対立そのものが幻想だからだ。三島的プロジェクトの破綻は、この幻想の限界を示している。
女性性が「構成力の欠如」として断罪されるとき、そこには別種の構成力の可能性が封じ込められている。それは中心なき自己組織化、形相なき形態生成の力能だ。この力能は「カオスモーシス」的であり、形相的思考の枠組みからは把握できない。三島的思考の限界は、形相/質料、精神/身体、男性/女性という二元論的対立に囚われている点にある。この対立図式を超えた思考の可能性——それは「女性的」でも「男性的」でもない強度の思考——を探求することが、現代思想の課題ではないか。
三島の「女ぎらひ」を通して見えてくるのは、日本的美学に潜む形而上学的二元論の影である。しかしその影の濃さゆえに、それを超える思考の可能性もまた浮かび上がる。三島的美学の破綻点こそが、新たな思考の出発点となりうるのだ。「構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義」——これらの断罪を反転させたとき、そこには形相的暴力に抵抗し、強度の自己組織化を肯定する思考の萌芽が見えてくる。三島的プロジェクトの内的矛盾を通過することで、二元論的思考の限界を超えた存在論的地平が開かれるのではないか。それは形式と強度の対立を解消し、生成変化する実在の複雑性を肯定する思考の地平である。