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思想家・遠藤道男 思考録

反転する芸術の領域:アウトサイダーとインサイダーの逆説

物語の終焉を告げるのは、常に新たな物語の始まりである。アウトサイダーとインサイダーという二項対立的枠組みは、長らく芸術的実践の理解において中心的な位置を占めてきた。だが今日、この区分はもはや自明ではなく、むしろ奇妙な反転現象を呈している。私たちが目撃しているのは、単なる境界の曖昧化ではなく、それ自体が自己を否定し、その否定を通じて自己を再肯定するという弁証法的逆説である。この反転は単に芸術の領域における現象ではなく、むしろ現代の思考様式そのものが抱える深遠な矛盾を映し出す鏡として機能している。

芸術における「アウトサイド」とは、制度化された表現体系の外部に位置する創造行為を指し示してきた。精神病院の患者、刑務所の囚人、あるいは社会の辺縁に生きる者たちの表現行為は、公式の芸術教育を受けていないという「欠如」によって特徴づけられ、そしてまさにその欠如こそが、彼らの表現に「純粋さ」や「無垢さ」という価値を付与する根拠となった。しかし、この単純な構図は徐々に解体され、複雑な相互侵犯の場と化している。

アウトサイダーアートが主流の芸術市場に取り込まれ、美術館や画廊で展示され、高額で取引される現象は、すでに多くの論者によって指摘されている。だが、私が注目したいのは、この「アウトサイダーの内部化」という一方向的な運動ではなく、それと並行して進行する「インサイダーのアウトサイダー化」という逆説的運動である。今日、制度的に認知された「プロフェッショナル」な芸術家たちが、意図的にアウトサイダー的な表現様式を模倣し、時には自らの教育歴や社会的地位を隠蔽してでも「生の芸術」という幻想を演出しようとする傾向が顕著になっている。

この現象は、ドゥルーズが「器官なき身体」と呼んだ概念との奇妙な共振を示している。ドゥルーズによれば、器官なき身体とは、組織化された身体の秩序に対する抵抗の場であり、固定化された意味や機能から逃れようとする欲望の平面である。現代の芸術実践において、インサイダーたちは自らの「過度に組織化された」芸術的身体から脱却し、アウトサイダー的な「器官なき身体」へと自己を変容させようと試みている。しかし、この試みは根本的なパラドックスを内包している。なぜなら、彼らの「脱組織化」の試みそのものが、高度に洗練された芸術的戦略の産物だからである。

より深刻な問題は、この反転運動が単なる芸術的傾向の変化ではなく、資本主義的生産様式と密接に結びついた現象だという点にある。アウトサイダー性の商品化は、差異それ自体を消費対象とする後期資本主義の論理の延長線上に位置している。かつて抵抗の象徴だったアウトサイダー的表現は、いまや消費可能なスタイルのカタログの一項目へと還元されている。そしてこの市場ロジックにおいて、「本物の」アウトサイダーと「演じられた」アウトサイダーの区別はもはや意味をなさない。重要なのは、その表現が市場において差異として機能し、消費可能な形で提示されるかどうかだけである。

ここで私たちは奇妙な反転に直面する。アウトサイダーがインサイダー化するのと同時に、インサイダーはアウトサイダー性を戦略的に取り込む。その結果、両者の区別は実質的に無効化され、ある種の「無差異の空間」が生成される。しかし、この無差異性の内部においても、新たな階層化と分断が進行している。それは、アウトサイダー性を演じるための洗練された技法を習得できる者とそうでない者との間の分割である。アウトサイダー性の演技において最も成功するのは、皮肉にも最もインサイダー的な教育と感性を身につけた芸術家たちなのだ。

この逆説的な状況は、何を意味するのか。それは単に境界の曖昧化や価値の相対化という陳腐な結論に帰着するものではない。むしろ、芸術における「外部」という概念そのものの不可能性を示している。外部性は常にすでに内部から定義され、内部の論理によって取り込まれている。そして同時に、内部もまた常に自らの外部への欲望によって構成されている。この相互依存と相互侵犯の運動こそが、現代の芸術的実践の本質的特徴である。

しかし、この相互侵犯の運動が進むにつれて、新たな隠れた分割線が形成されていることも見逃せない。それは、「アウトサイダー性の演技」を意識的に遂行できる者と、自らの立ち位置を反省的に把握できないまま制度内に取り込まれる「本物の」アウトサイダーとの間の分割である。前者は自らの戦略性によって、後者は自らの「純粋さ」によって、それぞれ異なる形で商品化されていく。

この状況において、真に急進的な芸術的実践とはどのようなものでありうるだろうか。それは、アウトサイダーでもインサイダーでもない位置、あるいはその両方を同時に体現する位置から発せられる表現ではないだろうか。それは、二項対立の反転それ自体を対象化し、その反転運動を推進する資本主義的論理を可視化する実践である。それは、自らの立ち位置の矛盾を引き受け、その矛盾そのものを創造の源泉とする態度である。

アウトサイダーとインサイダーの区分が反転し、相互侵犯する現在の状況は、単なる芸術的潮流の一変種ではなく、後期資本主義社会における主体形成の根本的条件を照らし出している。主体は常に、自らの外部を取り込むことで自己を確立し、同時にその取り込みによって自己を解体するという二重の運動のなかにある。この矛盾に満ちた運動のなかで、芸術的実践の可能性と限界が問われているのだ。

究極的には、アウトサイダーとインサイダーの反転現象は、単に芸術の領域における現象ではなく、現代社会における差異の生産と消費の根本的なメカニズムを映し出している。資本主義的生産様式は、あらゆる差異を生産し、同時にその差異を均質化するという矛盾した運動によって特徴づけられる。アウトサイダー性も例外ではなく、それはインサイダー性との対立項として生産され、同時にその対立そのものが市場に取り込まれていく。

しかし、この循環から完全に逃れることは可能だろうか。おそらく不可能である。だがその不可能性を認識すること自体が、新たな思考と実践の地平を開く可能性を秘めている。アウトサイダーでもインサイダーでもない、あるいはその両方である位置から、私たちは芸術的実践の新たな可能性を模索することができるだろう。それは、差異と同一性の弁証法的運動そのものを対象化し、その運動が生じさせる矛盾と亀裂のなかに創造の余地を見出す試みである。

現代における芸術的実践の課題は、アウトサイダーになることでもインサイダーになることでもなく、その二項対立そのものを超えた地点から表現の可能性を探求することである。それは、既存のカテゴリーに回収されない「名づけ得ぬもの」を表現する試みであり、その試みそのものが常に失敗の危険と隣り合わせであることを自覚しながらも、なお表現の不可能性に挑戦し続ける態度である。この不可能なものへの挑戦こそが、アウトサイダーとインサイダーの反転現象が私たちに突きつける根本的な問いなのである。

作成日: 2025-04-01