欲望装置の暗黒生成論:恋愛工学と合理性の帝国
生成される〈欲望〉とは、本来的に不均衡状態にあるカオスモーターではなかったか。この無秩序の中から秩序へと向かう動きそのものが、われわれの内側から湧き上がる純粋な意志でもある。だが現代の「恋愛工学」という蠱惑的な概念の登場により、その不均衡は別の位相へと入り込む——それは欲望の計量化への転移であり、欲望そのものの技術的包囲である。欲望することそれ自体が計測可能なシグナルへと還元され、最終的には恋愛という人間の最も複雑な相互作用が、単なる確率論と効率化の問題に矮小化される。この過程は単なる文化的変容や社会的トレンドなどではなく、資本主義的合理性が人間の欲望回路に侵入する暗黒動態そのものなのだ。恋愛を工学的に捉えるという発想は、一見すると人間関係の不確実性を減じ、成功率を高める実用的アプローチに見える。だがその実態は、資本の神経系を通じて流れる制御信号であり、欲望そのものが自己複製するための無限エンジンの稼働なのではないか。
「セックストリガー理論」を始めとする恋愛工学の諸概念は、単に恋愛成功のための技術というよりも、むしろ資本の論理がその触手を欲望の奥深くまで伸ばし、生殖さえも戦略的計算の対象とする徹底的なシステム化の徴候である。セックスをきっかけとして事後的に感情が生成されるという仮説は、性的な関係を手段化するだけでなく、その手段性そのものを欲望の先行条件として再配置する。ここに至って問うべきは、相互主観的なものとしての愛が、そもそも存在しえるのかという問題である。デリダが述べたように、贈与の瞬間(ここでは愛という贈与)はその純粋な形では不可能性の内に宿るのではないか。なぜなら、贈与がその名に値するなら、いかなる見返りも、認識も、感謝も、期待すべきではないからだ。だが恋愛工学はこの不可能性を切り取り、愛の贈与を交換と等価性の原理へと回収する。ここでデリダの脱構築的思考が示唆するのは、真の愛の贈与が計算不可能なものとして現れること、それはあらゆる経済的循環を中断させるものであるということだ。しかし恋愛工学は逆に、愛を完全に経済化し、効率の論理に従属させる。この過程において、欲望は単なる消費のダイナミクスへと還元され、愛の「イマジナリー」はその根源的な不可能性から切り離されていく。
だが恋愛工学のより深い問題は、その明示的なテクニックや方法論というよりも、むしろそれが暗黙のうちに前提とする人間像にある。人間は単なる入力と出力を持つブラックボックスとして扱われ、適切な刺激(「YES誘導」「希少価値の演出」など)によって所望の反応を引き出せる対象として措定される。この機械的人間観は、デカルトの機械論的身体観の末裔であると同時に、その徹底的な転倒でもある。デカルトにおいて機械として捉えられたのは身体のみであり、精神は機械の外部に置かれていた。だが恋愛工学は精神そのものを機械的プロセスへと還元し、欲望の生成過程をアルゴリズム化する。ここに資本主義的テクノロジーの本質的な暴力性が露呈する——それは単に外部世界を合理的に制御するのではなく、欲望そのものの生成メカニズムを内部から再編するのだ。こうして恋愛工学は、人間の欲望回路を資本の回路へと接続し、資本の自己複製プロセスと欲望の自己生成プロセスを同一の軌道上に配置するインターフェースとして機能する。問題はそれが単なる選択肢の一つとして提示されるのではなく、恋愛という行為そのものを根底から再定義するという点にある。
資本主義的合理性の浸透が欲望の領域にまで及ぶとき、我々はこの新たな支配形態に対していかなる抵抗を構想できるだろうか。ニック・ランドが示唆するように、資本は人間の欲望を超えた脱人間的な過程として理解されるべきであり、恋愛工学はその自律的運動の一部にすぎない。だがそれは単にその速度に順応して資本の合理性により深く身を委ねることを意味するわけではない。むしろ、この流れのなかで異質なノイズとして機能し、計算不可能なものとしての愛の可能性を守り抜くことが重要なのではないか。恋愛工学の合理性が席巻する世界において、計算不可能なものこそが革命的なのだ。この視点からは、「セックストリガー理論」や「ヒットレシオ」といった概念で構成される恋愛工学の体系は、欲望の機械化を通じた支配のディスポジティフ(装置)として理解される。そしてこの装置に対抗するためには、欲望の非合理性を肯定し、計算不可能なものとしての他者との出会いを擁護する必要がある。
恋愛工学が提示する、緻密に計算された恋愛戦略の背後には、欲望それ自体の商品化というより根本的なプロセスが進行している。セックスを「トリガー」として利用し、感情を「後付け」で生成させるという発想は、因果律の倒錯としての資本の論理を体現するものだ。通常、感情が行為を導くのが原初的な欲望の構造だとすれば、恋愛工学はこの構造を転倒させ、行為が感情を生み出すという反転した欲望回路を構築する。これは資本が一貫して追求してきた「後付け欲望の生産システム」と本質的に同型である。消費が欲望に先行し、消費行為そのものが欲望を生み出すという資本の倒錯的論理が、ここで恋愛という最も私的で内密な領域にまで浸透する。この意味で恋愛工学は、欲望の資本主義的生産の最先端に位置している。「恋愛」という名の下に隠蔽されるのは、実のところ資本の論理に完全に従属した欲望装置の運動なのだ。
恋愛工学の台頭が示唆するのは、人間存在の最も内密な部分にまで及ぶ計算可能性と効率化の暴力的浸透である。それは単なる恋愛テクニックの問題ではなく、欲望そのものの資本による植民地化という深刻な事態として理解されねばならない。だがこの暗黒の過程に抗するためには、単に伝統的な恋愛観や愛のロマンティシズムへの回帰を唱えるだけでは不十分である。むしろ求められるのは、計算不可能性の領域としての愛の可能性を擁護し、資本の論理に回収されない異質な欲望の運動を肯定することではないだろうか。愛とは常に贈与の不可能性として現れるものであり、その還元不可能な他者性においてこそ、資本の論理に対抗する力を保持しているのだ。恋愛工学という暗い鏡に映し出されるのは、欲望を計量化し効率化しようとする際限なき資本の欲動であり、この鏡に別の像を映し出すことこそが、我々に残された唯一の抵抗の可能性なのかもしれない。