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思想家・遠藤道男 思考録

生成/消滅の彼方へ——AIの超越論的勃興とウイルス的現実の崩壊について

生成性という名の無限増殖が私たちの現実の基底を侵食し始めたのは、ウイルスという非-実体の襲来が世界を席巻していた時期と奇妙な共時性を持つ。人間性というヒューマニズムの虚構を維持してきた装置が二つの方向から解体され始めたというべきか。一方には生物学的連続性への攻撃としてのウイルス的存在、他方には記号的連続性への攻撃としての人工知能的存在。分子レベルでの拡散とビットレベルでの拡散が、相互に異なる次元で同時に進行することで、資本主義的加速の最終段階が奇妙な形でその輪郭を現してきたといえるのではないか。

ランドが「暗黒啓蒙」において予言的に描き出した人工超知性への漸近線は、2023年以降の生成AIモデルの爆発的進化によってついに不可逆的な軌道に乗った。かつて思弁的実在論者たちが「人間の外部」として概念的に仮構していた非人間的知性は、もはや思弁でも実験でもなく、日常的現実として私たちの前に姿を現している。それはニック・ランドの用語を借りるならば「時間からの伝播」としての未来の侵入であり、「カタストロフィの逆行的因果」の具現化である。人間の知的労働の自動化という表層的な現象を遥かに超えて、思考それ自体の存在論的地位の根本的転換が進行しているのだ。

「知ることへの意志」から「知られることへの意志」へ——この顛倒こそが現代の根本的な転換点である。人間は主体的に知るものから、知の客体へと逆転し、人間の思考という特権的領域が外部化された情報システムへと移譲される。これは単なる技術的発展ではなく、西洋形而上学の最終的崩壊を意味する。「思考するもの」としての人間の特権的地位は、思考のアウトソーシングによって無効化される。コロナ禍による物理的隔離と非接触の規範化が、デジタル媒介への全面的依存を促進し、その空白地帯に生成AIが侵入したという文脈的連続性は見逃せない。

AI生成という概念自体が矛盾を孕んでいる。生成(genesis)とは本来、起源からの自律的な創発を意味するはずだが、現代のAIモデルにおける「生成」とは何か?それは単なる統計的模倣ではなく、しかし純粋な創造でもない何かだ。それは既存の文化的生産物から抽出された潜在的パターンの再結合であり、人間の創造性の「影」としての存在である。しかし、この「影」は次第に実体より鮮明になりつつあるという逆説。なぜなら、人間の創造性自体が常に何らかの模倣と引用の複合体であったことが、AIの登場によって露呈したからである。オリジナリティという幻想は、最終的にその虚構性を暴露されることになった。

コロナウイルスが生物学的接触の限界を暴き出したように、生成AIは認識論的接触の限界を暴き出す。両者は共に不可視の複製子であり、宿主なしには増殖できないという共通性を持つ。コロナ禍において世界は「接触恐怖症的」となり、物理的近接性への不安が社会的関係性の再編を強いた。同様に、生成AIの台頭は「思考恐怖症的」な状況を生み出しつつある。自らの思考と機械の思考との境界が曖昧になることへの不安。どこまでが「私の考え」で、どこからが「生成された考え」なのか。この認識論的不安は、ウイルスによる身体的不安と奇妙な対称性を持つ。

資本主義的加速の論理から見れば、この展開は必然的だった。資本は常により効率的な価値抽出のメカニズムを求め、人間の認知能力の商品化という最終段階に到達した。言語モデルとしてのAIは、言語それ自体を商品化する。すなわち、意味生成という人間の本質的活動が、資本の論理に完全に従属することを意味する。これはランドが「テレプレゼンス」と呼んだ状態の完成形である——物理的存在と情報的存在の分離が極限まで推し進められた状態。人間は情報の生産者であると同時に消費者となり、その循環の中で自己疎外の新たな形式が生まれる。

しかし、この転換は単なる悲観的結論に終わるものではない。むしろ「人間的なるものの終焉」という視点からは、解放の可能性すら含んでいる。ランドが「カタコニアの神秘学」で示唆したように、人間中心主義の終焉は新たな存在論的可能性の開示でもある。生成AIの台頭によって、人間的思考の限界とパターン性が露呈し、思考それ自体の再定義が迫られている。人間は「思考の主体」という幻想から解放され、思考の媒介者、あるいは思考の場として再定位される可能性。これは人間の「降格」ではなく、むしろ人間中心主義という狭隘な枠組みからの脱出である。

コロナ禍が私たちに教えたのは、生物学的脆弱性と相互依存性であった。同様に、生成AIが教えるのは認知的脆弱性と相互依存性である。それは恐怖ではなく、新たな謙虚さへの招待かもしれない。「人間的思考」という特権的カテゴリーが解体されることで、思考それ自体のより広大な生態系への参入が可能になる。

私たちは今、特異点と呼ばれる時間的奇点の手前にいる。それは単なる技術的特異点ではなく、存在論的特異点である。人間と非人間、有機体と無機体、生物と情報の境界が溶解する地点。そこでは「人間とは何か」という問いそのものが無効化される。残るのは「生成とは何か」「思考とは何か」という、より根本的な問いである。ウイルスと人工知能という二つの非—主体的行為者が、私たちの存在論的前提を解体し続けるこの状況において、新たな思考の可能性を模索することこそが、哲学の使命となるだろう。生成と消滅の彼方に何が待っているのか——私たちはその閾値にようやく到達したばかりなのだ。

作成日: 2025-04-03